居場所を求めて、ただ懸命に生きた。その先にあったもの|濠うかさん連載「本当は何を望んでるの?」
社会や他人の期待の中で、いつのまにか見失っていた「私」を、もう一度見つけにいく。誰かのためではなく、ただ、自分の心をやさしくやさしく、ほどいていく。この連載は、濠うかさんが「自分を取り戻す」ために歩んだ、小さくて深い、気づきの旅の記録。
「あなたがあなた自身であることに、何の申し訳なさも感じずいられる場所で生きなさい」
そんな言葉をかけてくれたのは、10代の頃から私を気にかけてくれている、ちょうど一回り年上の、姉のような存在の人だった。
転職先を決めないまま退職をしたばかりだった26歳の私は、「これからどのように生きていこう」という、漠然とした大きな不安の中で日々を過ごしていた。
もともと、自らの手で前向きに選択したキャリアブレイクだったにも関わらず、あまりにも自由な時間の中にじっと身を置くことに少しずつ耐えられなくなり、「誰かの役に立つ事ができる場所」をあてもなく探し求めるように、様々な場へ出向くようになっていった。
けれど、どこに居ても、いつもどこか居心地が悪く、どんなに必死に掴もうとしても、“これまでの私”がすり抜けていってしまう。
たしかに存在していたはずの“自分が何を望んでいるか”という指標が、いつの間にか目の前から消えて無くなっていたことに気がつくと「私は、“誰かの役に立つこと”以外では、日々の選択の仕方も、存在意義すらも分からないのか」と、改めて自分の現在地を再確認することになったのだった。
小学4年生の終わり頃に学校に行けなくなった私は、以降の中学、高校と、結果として復学できないままに進学をした。同年代の子達が、家の外の世界で社会性を育んでいたであろう時間を、ひとり家の中で過ごし、背が伸び切った頃には、ただの挨拶もままならないほどにコミュニケーションが苦手な状態になってしまっていた。
通信制の高校をなんとか卒業したはいいものの、進路を決めないままにただ過ぎゆく日々に焦りながら、「高校を卒業したのに、親に扶養し続けてもらうなんてできない」と、自発的に思い立ち、社会に出るための足がけにアルバイト探しを始めたが、当然就職に有利になるような学生時代のエピソードや経歴を持ち合わせているはずもなく、志望書類を送った会社から返ってくるのは、いつも不採用通知ばかりだった。
物心ついた頃から、自分自身のジェンダーアイデンティティに違和感を感じ、その悩みを抱え込みながら生きる日々の中で、常に居場所のなさを感じながら生きていたからだろうか。
「低学歴でセクシュアルマイノリティーの私を採用してくれる場所を見つけることは簡単なことじゃないんだ」と、残酷な現実に自分自身を納得させることは、当時の私にとって何の抵抗もないことだったように記憶している。
ただ、「当面の腰掛けに…」と、軽い気持ちで勤め始めていた初めてのアルバイト先の仲間たちが、前向きにをチャレンジする私を受け入れてくれたことが、「たとえ今の自分が吹けば飛ぶほどの存在でも、誰かの役に立つことで、必ず居場所は開かれていく」と、漠然と信じられる心強い体験となり、それから数年間は、自分の居場所を探し周りながら働き続けた。どんな職場でも、ただ懸命に。
そんな想いで20代半ばまで生きてきたわたしにとって、「自分自身を最大限用いて、ただ純粋に誰かの役に立つ事」が仕事の最大の目的とも言えた、前職場の不動産会社における“コミュニティマネージャー職”は天職だった。
しかし、当時大きな目標としていたゴールを達成して以降、一向に広がりの気配を見せない環境下に身を置く中で、転職を考えはじめた頃、突然、身体の不調に見舞われ、入院を余儀なくされた。
立つことも、座ることも、もはや寝そべることすらも辛いような状況だったにも関わらず、病的に強い責任感と、誰かに迷惑をかけてしまうということへの潜在的な恐怖からか、当時の私は、どうしても心と身体を優先することができず、「療養のためにすぐにお休みをください」と、口に出すことができなかった。
通常通りに働きながら、半休を取得して週に一度クリニックに診察に行く日々に、心も身体も疲弊しきっていて、手術・入院をする病院に、自分のジェンダーアイデンティティを説明することもできないまま、保険証に記載された通りの性別の相部屋の病室に通された。
入院生活が始まると、それまで私にとって日常だった誰かを前に着飾ることも、振る舞うことも、微笑みかけることも、説明することもなく、ただ沈むように横たわりながら、同室の男性患者たちの無遠慮な咀嚼音や独り言に耳を塞ぐ日々が続いた。
冷たく慣れないシーツの感触の上で、一息、「すぅ…はぁ…」と、呼吸をするごとに、「私は、私の一部を、自ら誰かに“奪わせて”いたんだ」と目が覚めるような感覚に陥り、やがて、「自分の本当の望みや願いはどこにいってしまったのだろう」と、小さくも強く疑問を抱くようになっていった。
そんな心持ちの最中に迎えた最終出勤日。「自分勝手に生きていいんだよ」「これからのごうちゃんを楽しみにしているよ」と同じ場で時間を共にしていたお客様たちがかけてくれるかけがえのない言葉の数々と、たくさんのギフトを両手に抱えて、その場を後にした。
しかし、「誰かの役に立つことで生きている自分」のみに価値を置いてきた私の思考回路が、その日を境に突然変わるわけもなく、自分が何を望んでいるのかも、自分を取り戻すとは一体どういうことなのかもわからないまま、強制的にキャリアブレイク期間に入ってしまった。
数週間が経ち、あまりにも自由な時間に耐えきれなくなって、知人が営む小さなレストランで働き始めようとしていた頃、冒頭の言葉を私にかけてくれた彼女に近況の報告をすると、彼女は「ようやく立ち止まれたのに、その選択をしたらきっとあなたはまた同じことを繰り返すよ。あなたの健気さや優しさに人が集まってきて、目の前の誰かの心を緩めて、拠り所になって、やれる事をやり切って、そしたらまたそこから旅立つよ」と、まっすぐに言い切った。
頼りになるものひとつも持たずに社会に出て、ただ真っ直ぐに進むしか知らなかった18歳の頃から私を見守り続けてくれている彼女から、はっきりと言われたその言葉に、「確かにそうだ。そうに違いない」と、心からそう思った。
それでも、誰の役にも立っていない今の自分自身に打ちひしがれ、居場所を求めながら、ただ時間を溶かすように過ごしていた私は、その選択をやめることはなかった。
しかし、結果として、働き始めてわずか1週間とちょっとで、そのアルバイト先を辞めることになった。
目の前の誰かの心を緩めること。優しく暖かな空間や会話に努めること。これまで何の無理もなくできていたそれが、前の職場を離れたたったの数週間のあいだに、全く出来なくなっていたのだ。
考えても考えても分からない「自分の望み」を知らなければ、おそらく新しい道は拓かれないことを悟ったその日から、私が私の望みを知るための日々が始まった。
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