「私がその顔なら、もっと上手く生きるのに」美は活用すべき資産なのか?『あのこは美人』【レビュー】
「見る側」と「見られる側」の格差
高級ルームサロン嬢であるキュリは、自分の美を資源にお金を稼いでいる。スジンは、美容整形によってルームサロン嬢になり収入を上げたいと考えているネイリストだ。ふたりは、自分が「見られる対象」であることを強く意識している。
一方、アラは自らの美を磨くよりも、推しのアイドルを愛でることに夢中で、ミホはアーティストとして対象を観察し、作品に消化する。ミホは観察者であり、自分がどう見られるかをほとんど気にかけない。
「見られる側」である限り「見る側」の気持ちを気にかける必要があるが、「見る側」に立てば、相手の気持ちよりも自分の意思こそが重要になる。
しかし、「見る側」に立てるのは、ある種の特権だ。
ミホは容姿に対するコンプレックスがなく、創作活動という没頭できるものがあるため、見られ方を気にする必要がない。そしてルームサロンに来る客たちも、自分たちは品定めする側であって、自分たちが容姿をチェックされるとは微塵も考えてもいない。
キュリやスジンはお金を稼ぎたいと考えているが、自分が美しい人たちを愛で、接待されるような地位につけるとは考えていない。スジンのもっとも強い欲望は「ルームサロン嬢になって稼ぐこと」であり、キュリが羨むのは美しい女性アイドルであって、高級ルームサロンに通える地位や経済力のある客たちでは決してない。ふたりにとって、品定めする側にいくことは、非現実的すぎて、想像もし得ないことなのだ。
前述の美しい大学のクラスメートは、法科大学院に進み、のちに裁判官になった。もし彼女が勉強できる環境にいなければ、自らの美を活かす道に導かれたかもしれない。今になって思うのは、彼女は美を活かさずもったいないことをした人ではなく、美を活かさずに済む選択肢を与えられた恵まれた人だったのかもしれない、ということだ。
厳しい現実を生き抜くためのシスターフッド
本書では、それぞれの女性の視点で個々の厳しい現実が語られる。
お互いを、うらやましく思ったり、理解できないと感じたり、あきれたりもする。お酒を飲み、服を貸し借りし、夜通し語り合う。ときには友だちの進路を切り拓くため、密かに奔走する。ピンチのときに駆けつけてくれるのは、客や恋人、親ではなく、彼女たちだ。
厳しい現実を描きながらも希望が垣間見えるのは、彼女たちのシスターフッドゆえだ。
本書の帯にはこう書かれている。「わたしにはわたしの地獄、あのこにはあのこの地獄」。地獄でも生きていけるのは、あのこがいて、決してひとりではないからだ。
『あのこは美人』は、「女同士のどろどろ」「女の敵は女」などというミソジニーとは無縁の、女性同士の友情物語でもあるのだ。
- SHARE:
- X(旧twitter)
- LINE
- noteで書く