両足院副住職・伊藤東凌さんに聞く、視点を広げ柔らかい心を作る【自問の活用法】
思い込みにとらわれがちな私たちが、それらを手放し、本来の状態に戻るためのヒント。そして、私たちの内側に広がる、未知な部分、可能性、平穏…を見つけるための考え方を、様々な専門家にお話を伺いながら探っていく連載企画『インナージャーニー(内なる探求)』。第1弾は、臨済宗建仁寺派 両足院副住職の伊藤東凌さんに、視点を広げる問い方についてお話を伺いました。
次々に変動する環境、情報と刺激に溢れた日常、人間関係……。生きていく上で抱える沢山の不安や苦しみを抱える私たち。「苦しみの根本は自分へのこだわり=自我から生まれる」と、『忘我思考』(日経BP)の著者、臨済宗建仁寺派 両足院の伊藤東凌副住職は仰っています。では自我をどうしたら忘れることができ、何事も受け入れる柔軟性を手にすることができるのでしょうか?
「問い」によって自分を柔らかく自由にする
多くの方は、私ってこういう性格だからとか、あなたはこうだからと、自己を固定したものと見なしてしまう硬さがあります。この硬さが自由を奪います。でも本当は多面体で、一つの側面から見て決めつけているだけで、他の面を見逃してしまっている。そもそも固体だと思っていること自体が間違いで、自己存在っていうのは、動いたり膨らんだり縮んだり、変化している液体的なものじゃないですか。本質はそっちなのに、認識の方が間違っていて、固い一面しかないと思い込んでしまっています。 ここにどうにか刺激を入れて、もっと柔らかくしていくために、「問う」ということをお勧めしています。「問う」ことで多方面からみて固くしてしまった自分の認識をほぐして、本来自分は水のように流動的だということ、柔らかいものであったという認識に改めることができます。そんな風に柔らかく捉えることができたのなら、ある1点だけをみて、自己肯定、自己否定する必要もないですし、この人苦手!って思っていた人が、別の側面から見ると、自分にすごく必要な存在だなと、気づいたりすることができます。
ーー確かに。不安だからこそ自分を知ろう知ろうと頑張って、自己を見つめすぎた故に、頑なになってしまっていることがありますね。
東凌さん:自己肯定という言葉にはすごくトリックがあるように思います。自己は否定とか肯定の対象ではありません。水のように流れ変化していくものです。それを、肯定否定と止めて考えると、本来動いているもの、流れているものを無理に止めてしまうのでうまくいかなくなる。この時点で呪いにかかってしまうのです。うまく流れていた川を、わざわざ堰き止めてしまうようなことなので。
ーーこの「問う」ということは言葉が中心になってくると思うのですが、著書の中で言葉には無限の可能性と危険性があるというお話があり、印象に残っています。言葉をどう扱ったら無限の可能性に広がり、どう扱ったら危険になるのかを聞かせて頂けますか?
東凌さん:言葉は区別の極みですよね。区別するからこそ簡単にわかるようになるわけです。「これはお茶だ」って区別しますが、お茶にも色々な種類があり、1つのお茶の中にも本来は様々な変化と可能性があります。分類することで分かりやすくなるという便利さはありますが、それによって情報が圧縮され、固定化されてしまいます。
言葉には、区別して分かりやすく人に伝達できるという要素もあれば、概念を固定化させてしまう要素もあります。
言葉にはその人それぞれの思い出がくっついて、多面的に考えることを邪魔していることも多いのです。例えば「失敗」と言う言葉。この言葉を完全にネガティブだと捉え、避けようとする人もいれば、失敗することで見えることがあるから、失敗は可能性だ、沢山積み重ねた方がいいと捉える方もいます。ほとんどの方が、失敗は嫌なことだと固定化させていることが多いのではないでしょうか?それは失敗と言う言葉に紐づいた「思い出」によって起こるので、記憶と言うのは結構厄介なんですね。
1つの言葉にも多面性があるにも関わらず固定化してしまうんです。この固定化したものを柔らかい多面性、無限の可能性に戻すには、今のリアルな気持ちでもう一回言葉と向き合ってみることが大事です。そこで「問い」を投げかけ、様々な視点から言葉を見直すんです。固くなった言葉を流動体の生き物として扱えたら、ネガティブに捉えていたものに可能性がいっぱいあることに気づくことができます。「問い」には、その刺激を与えてくれる可能性があるんです。
ーー「問い」は自分の捉え方を柔らかくするための装置みたいな役割をするんですね
東凌さん:そうそう。フィルターというか装置ですね確かに。嫌なものだと思っていた「失敗」を様々な問いというフィルターに通すことで、「あれ失敗ってそんな嫌じゃないかもしれない」なんてふうに変わったりする。「忘我思考」の中で紹介している問いのメソッドでは、1つの言葉に対して様々な問いを投げかけていきます。日々暮らしの中で大切にしている言葉、心に引っ掛かる言葉、よくも悪くも関心のある言葉を選びます。その言葉に対して、今までの人生でこの言葉に関する大きな出来事とは?や、この言葉の色、形、大きさなど、見た目をどう描写するか?それを基に自分の服装でコーディネートするとどうなるか着てみたい服は?など全部で20の問いを設け、様々な角度から言葉を見つめ直していきます。そうすることで、思考回路が柔軟になったり、「いい言葉」「悪い言葉」といった束縛からも自由になれます。「言葉の因数分解」で問題解決への新たなアプローチが開けたり、曖昧だった概念が再構築され、人生を支えるツールにもなりえます。
ーー実は私もそのメソッドに基づいてやってみたんです。私は「依存」という言葉に苦手意識があるので、その言葉で20の問いを試してみました。問いに従って様々な角度から光を当てていったら、依存というのは言い変えると「助け合う」ってことなんだな、と新たな視点が生まれました。植物と動物が酸素と二酸化炭素を交換し合っているような、大自然の営みそのものでもあるなと思うことができたんです。じゃあ私はここの何に引っかかっているんだろう?ってところをみていった時に、依存が嫌なんではなくて、依存に含まれている束縛や不自由さみたいなものが嫌だったんだなということに気がつき、核心に一歩近づいた感覚がありました。また、私たちは安心したいが故に、1個の固定した答えを導き出そうとして、その言葉の持つ可能性に制限をかけてしまっているんだなあ、という気づきもありました。きっと答えも正解、不正解といった固定化されたものではなく、その瞬間に流動的に変化していくものなんだと思えば、逆に答えが見つからないことを怖がったり焦ったりすることもなくなるなって感じました。
東凌さん:素晴らしいですね。そういうことなんです。その話だけでもう十分かもしれませんね(笑)。
自己を梅干しの種からトマトに!?
東凌さん:問うことは、自分の視点を広げ、自己の拡大につながります。それは本来の柔らかさに戻り自由度が増すということなんです。私はそのことを「梅干しからトマトへ」と表現しています。固い種を閉じ込めた、梅干しのような自己から、柔らかな果肉にいくつもの小さな種を散らしたトマトのように解きほぐす。ものすごくシンプルに言えばそんな意味です。 実のところ、禅的な態度、禅的な生き方のエッセンスが、ここには凝縮されています。1つの信念を頑固に守り通して核となる強みを固めていく梅干的な生き方は、それはそれでリスペクトすべきですが、 多様性と柔軟性が求められるこれからの時代は、生きづらさが増していくのではないでしょうか? 梅干的な堅さは、裏を返せば脆さです。閾値を超える圧力を受けるとあっけなく砕けてしまいます。しかし、他者を優しく受け入れるトマト的な柔らかさがあれば、ぺしゃんこに潰されたとしても、散らばった種までは潰されません。外面的なイメージは、その都度変えながらも、自分の本質をしっかりと保つことができるのです。恐怖をしなやかに受け流す、柳の木にも通じることですが、何者も受け入れる柔らかさは、本当の強さに欠かせない要素だと思います。
お話を伺ったのは…伊藤東凌(いとう・とうりょう)
臨済宗建仁寺派 両足院副住職。1980年生まれ。建仁寺派専門道場にて修行後、15年にわたり両足院での坐禅指導を担当。現代アートを中心に領域の壁を超え、伝統と繋ぐ試みを続けている。アメリカFacebook本社での禅セミナーの開催やフランス、ドイツ、デンマークでの禅指導など、インターナショナルな活動も。2020年グローバルメディテーションコミュニティ「雲是」、禅を暮らしに取り入れるアプリ「InTrip」をリリース。海外企業のウェルビーイングメンターや国内企業のエグゼクティブコーチも複数担当する。
AUTHOR
鈴木伸枝
ヨガ/冥想 指導者 全国のイベント出演、大学や専門学校のカリキュラムの作成、メディアの記事監修など、活動は多岐にわたる。指導者養成コース講師を担当し、1000人以上のヨガインストラクター輩出実績がある。 「自分を生かすYOGA」をモットーに、心と体双方の健康を目指し、自分に意識を向ける時間をもち、自身で心身をベストコンディションへ導き、ひとりひとりが自分らしく輝いて生きていくサポートを、ヨガを通して行うことをライフワークとしている。誰でも簡単にヨガや瞑想を生活に取り入れられるよう、平日毎朝6:30からインスタグラムよりクラスを配信している。
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