マハリシとビートルズ~超越瞑想で彼らが見つけたもの~

 マハリシとビートルズ~超越瞑想で彼らが見つけたもの~
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1965 - 1966年

ビートルズが精神的な世界に傾倒

ビートルズはこの頃には、ドラッグによる幻覚を想起させるサイケデリックサウンドを試しており、作品に取り込んでいた。ジョージ・ハリスンはマーティン・スコセッシ監督のドキュメンタリー映画『GeorgeHarrison Living in the Material World』のなかで、1965年に初めてLSDを使い、ヒマラヤにいるヨギの姿が見えたと語っている。「(ヒマラヤにいるヨギなんて)考えたことなかったけど、あの時は突然、意識の裏側に現れて……」。また、ビートルズは、1965年にバーズ(のちのクロスビー、スティルス&ナッシュ)のデイビッド・クロスビーとロサンゼルスにいたときに、シャンカールの音楽に出会った。ハリスンは翌年、イギリスツアー中にシャンカールに会って、シャンカールからシタールを習い始めている。シャンカールがハリスンのヒンドゥー文化と精神的なものへの興味を同時に育てていった。ハリスンはBBCワールドサービスラジオのインタビューに「ラヴィ(・シャンカール)とシタールは、この精神的なつながりを手にするための口実のようなものだった」と答えている。1966年、ハリスンと元妻のパティー・ボイドは、インドにシャンカールを訪ねている。シャンカールと兄のラジェンドラは、ハリスンが精神性を求めていることに関心を持ち、ハリスンに本を数冊手渡した。その1冊がパラマハンサ・ヨガナンダ著『あるヨギの自叙伝』だった。シャンカールは2008年に行われた対談で、「ハリスンのヴェーダへの興味とインド性」はこの本から始まったと語っている。

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1965 - 1966年:ビートルズが精神的な世界に傾倒

1967年

ビートルズ、マハリシと出会う

ハリスンとビートルズの他のメンバーは、瞑想をするためLSDなどの薬物をやりとりしていた。そんななか、パティー・ボイドが新聞で超越瞑想に関する広告を目にする。その後起きたことはよく知られているとおりだ。その年、マハリシがロンドンを訪れてヒルトンホテルで講義を行った際には、ジョン・レノンとポール・マッカートニーがそれぞれ妻と一緒に参加した。ビートルズの4人は強烈に惹きつけられたあまり、翌日には全活動を中断、マハリシが開催した10日間の集会で超越瞑想を学ぶため、ウェールズのバンガーに向かって出発した。よく知られているとおり、4人は記者会見で薬物を断つことを誓った。

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1967年:ビートルズ、マハリシと出会う

1968年2月

ビートルズ、マハリシのアシュラムに滞在する

ビートルズの4人とそれぞれの妻たちは、超越瞑想を学ぶためインドのリシケーシュに向かった。ほかにも、ハリウッドスター、ポップスやフォーク音楽のスターなど大勢の著名人がリシケーシュを目指した。リシケーシュには数百ものアシュラムや寺院があって、瞑想やヨガを本場で学んで聖なるガンジス川で沐浴しようとする人が大挙して訪れていたため、ヨガ発祥の地と呼ばれていた。マハリシのアシュラムは、アメリカの慈善事業家、ドリス・デュークによる寄付金で建てられたもので、ガンジス川を見下ろす崖にあり密林に囲まれていた。マハリシは毎日最低8時間瞑想をすることを奨めていたが、アシュラムのいたるところに音楽があった。ビートルズはまわりに気を散らすものがない環境で、普段よりさらに多くの作品を生み出した。インド滞在中に数十曲を書いたと言われていて、そのほとんどが『WhiteAlbum』に収録されている。

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1968年2月:ビートルズ、マハリシのアシュラムに滞在する

1968年11月22日

ビートルズ、『White Album』をリリース

この画期的な2枚組アルバムの2曲目「Dear Prudence」は、昼夜を問わず瞑想を行っていたプルーデンス・ファローに敬意を表して、マハリシのアシュラムで書かれた曲だ。ジョン・レノンは1980年のインタビューで、こんな話をしている。「プルーデンスは3週間閉じこもって、誰よりも先に神に通じようとしていたんだ」。プルーデンスも当時を回想して、意識を広げるために並外れた努力をしていたことをジョンが認めていてくれたと話している。「私はジョージ(・ハリスン)のようだったわ。ほとんどの人が感じられないものや存在することすら知らないものに人生を捧げていたの。そこには疑いのない純粋さがあるわ。あれは美しい曲よ。あの曲は私にとって、『White Album』のなかでリシケーシュの雰囲気を正確に捉えている唯一の曲だわ」

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1968年11月22日:ビートルズ、『White Album』をリリース

1969年8月

ジョージ・ハリスンの「Hare Krishna Mantra」がイギリスでチャート入り

1966年、ハリスンはシャンカールと一緒に行ったインドのヴリンダーヴァンでキルタンを経験して、詠唱に心を奪われた。なかでも、気に入ったのがハレークリシュナマントラだった。1971年のバングラデシュコンサートを企画するためニューヨークに向かった際、飛行機が落雷にあったが、このマントラが守ってくれたと語っている。1968年2月、ハリスンはアップルレコードでシャマサンダー・ダスと偶然出会い、親しく付き合うようになった。ハリスンはある寺院に設けられたクリシュナ意識国際協会のために何かしないではいられない気持ちになり、そのための組織をロンドンに設立した。ふたりは1971年に共作アルバム『Radha Krishna Temple』を発表し、そのなかの「Hare Krishna Mantra」が1969年にヒットした。ハリスンはこの曲でキルタンに加わり、信者たちと一緒にハーモニウムを演奏している。このサンスクリット語の詠唱は、最終的にイギリスのチャートで12位に入り、このマントラが多くのビートルズファンに知られることとなった。

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1969年8月:ジョージ・ハリスンの「Hare Krishna Mantra」がイギリスでチャート入り

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by Jennifer Davis-Flynn
translation by Setsuko Mori



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