入りたい、でも入れられたくない|名もなきアンビバレンス(引き裂くような相反欲望)

 入りたい、でも入れられたくない|名もなきアンビバレンス(引き裂くような相反欲望)
牧村朝子
牧村朝子
牧村朝子
2021-03-12
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「ゲイ」や「LGBT」という呼び名が生まれた背景

さて、性別や性交を表す言葉「セックス」は、もともと「切り分ける」という意味であるとお話ししました。オスとメスとに切り分けて、男と女で組み合わせ。こうした考え方を、「男女二元論に基づく異性愛中心主義」。カタカナ語では、「ジェンダー・バイナリーに基づくヘテロセントリズム(ヘテロセクシズム)」と言います。

人を男女に切り分ける、この、言葉の刃。これに苦しんだ人たちが手にしたのも、また、言葉の刃でした。何も言わずに黙っていたら、「男は男、女は女、男と女で一セット」という仕組みの中に組み込まれてしまいます。ということで、「私たちはそこに組み込まれない。私たちは“ゲイな人”だ」という名乗りの声が、第二次大戦後のアメリカで上げられ始めました*3。

“ゲイ”というのは、“明るく楽しい”という意味。男を愛する男だけでなく、女を愛する女、恋愛に性別は関係ないと考える人、生まれたとき割り当てられた性別を脱ぎ捨てて自在に女装/男装する人、とにかく、「組み込まれない」人たちがみんなで声を上げたのです。「ゲイ“の”人」っていうふうに、まるで別の種類の人間であるみたいに切り分けるのではなく、「ゲイ“な”人」って、明るく楽しげな光で自分たちを照らして。名詞ではなく、形容詞で。

ところが……

性別で切り分けられ決め付けられることから、「ゲイな人」がどうやって自由になれるか。それを話し合う会議で、みんなにコーヒーをいれる役をさせられるのは、いつも、女性でした。バイセクシュアルの人は「同性愛か異性愛かハッキリしないやつ」と指差され、トランスジェンダーの人は「お前が男らしくしないから、おれたち男を愛する男のゲイまで勘違いされる」などと、らしくあることを強いられました。

カテゴリーに分類されることは、安心なのか?不自由なのか?

そんなわけで、誰もかもがみんな一緒に「ゲイな人」を名乗るわけにはいかなくなっていきました。同じ言葉をもう使えずに、レズビアン、バイセクシュアル、トランスジェンダー……と、言葉の上で分裂していきました。けれども、もうけんかをやめましょう、また一緒に自由を目指しましょう、ということで、社会運動のチーム名として頭文字を組み合わせて作られた言葉が「LGBT」です。

やがてこの言葉は、「男は男、女は女、男と女で一セット」というあり方しか想定していない社会制度から排除され、困りごとを抱えた人たちみんなが声を上げるときのチーム名になっていきました。レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーに限らず。

ところが、どうでしょう。「LGBT」という言葉、日本では、社会運動のチーム名であったことが忘れられ、まるで人間の種類を指す言葉のように使われてしまってはいないでしょうか。

「LGBT診断テスト」
「我が社のLGBT社員」
「芸能人がLGBTを告白」

自分はLGBTなのか、そうでないのか。そうだとしたらどれなのか。一度LGBT当事者として名乗りをあげたら、もう、「やっぱり違ったみたい」とは言えないのか。もともと自由になるためだったはずの言葉で、かえって悩み、不自由になってしまう。そんな話をちらほら聞きます。

言葉(=弁)で、物を区切って分けていく(=別)私たち。その中で思い出したい感覚

ここで思い出したいのが、ヨガのヴェーダ(※)です。

男女二元論に切り分けられる苦しみを生き抜くために作られたチーム名が、「LGBT」だとしたら。ヨガのヴェーダでは、「人間がものごとをどんな認識で切り分けても、どんな言葉で呼び分けても、なにもかもは“大いなるすべて”の一部である。あれも、これも、すべては、なにもかもとつながるように呼吸している本来の自分とまるくつながっている”」という、主体一元論をとります。

このことについて、ヴェーダの奥義書、『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』は、こんなにも詩的な美をたたえた言葉で表現しています。

「わが子よ、蜜蜂たちは蜜を作り、いろいろな木の花の液汁を集めて、これをひとつのものとする。それらの花の液汁がそのひとつのもののなかで、『わたしは、これこれの木の花の汁である』、『わたしはこれこれの木の花の液汁である』と弁別されないのと同じように、わが子よ、この世のあらゆる生き物は有に入ったとき、『わたしは有に入っているのだ』と知らないのである。」*4

れんげの蜜に、アカシアの蜜。人間の言葉(=弁)は、物を区切って分けていく(=別)、つまり弁別の機能を持ちます。けれども人間が人間の感覚をもって弁別をしても、とけあう蜜は、そこにある。とけあう蜜で満たされている。弁別が人間によって行われる営みであること、弁別される前にとけあう蜜のような“大いなるすべて”がこの世を満たしている感覚を、理解することができれば、忘れずにいられるのではないでしょうか。言葉によって切り刻まれるのではなく、言葉によって拓いていくのだ、という、その手に言葉を取り戻す感覚を。

アメリカ由来のLGBTという考え方で、確かに変えることができた制度もあります。安らいだ心、守られた生命もあります。けれども、「自分はどこに属するのだろうか」「このような自分には、もうこの言葉は似合わないのではないだろうか」「あの人たちとわたしたちとは違うのだ」というような、不安感、切り刻まれる感覚をおぼえた人がいるのも事実だと思います。

何か、言葉が欲しい。自分が何者であるのかを説明してくれる、自分が一人じゃないと思わせてくれる、仲間たちと自分とをまとめてくれる言葉を。けれども、その中に閉じ込められたくはない……。そんなアンビバレンスも、弁別されぬ、とけあう蜜の中にある。名付けられても、名乗っても。ほんとは、名もなき蜜なのです。

※古代の聖典群。ヴェーダは「神聖な宗教上の知識」を意味する。紀元前1,500年ころから長い時間をかけて伝承・編纂された、インド文化の源泉といえる重要な文献。

*1 大槻文彦「言海」林平書店刊 1932年 第566版 p.149
*2 Lyle Campbell「Historical Linguistics」MIT Press刊 2004年 p.83
*3 牧村朝子「ゲイカップルに萌えたら迷惑ですか?聞きたいけど聞けないLGBTsのこと」イースト・プレス刊 2016年 p.152
*4 川崎信定「インドの思想」筑摩書房刊 2019年 電子版第4章「ウパニシャッドの思想」

ヨガ監修/谷戸康洋
ヨガ哲学講師。ポーズを深めるテクニックや個々にあうアジャストメントや練習方法、ヨガ哲学クラス、ヨガ×キネシオロジーのヨーガセラピーなどはオリジナリティーに溢れた人気クラスを開催。本誌連載「漫画で読むヨガ哲学」で監修を務める。

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牧村朝子

牧村朝子

文筆家。87年生まれ、神奈川県出身。著書「ハッピーエンドに殺されない」「百合のリアル」ほか。性/旅/歴史/言語をキーワードに、国内外を取材しながら、時代や差異で隔てられる人と人を「つなぐ・つづける・つたえてく」執筆活動を行う。海が好きで、ビーチヨガ・SUPヨガ・シャドウヨガが好き。twitter https://twitter.com/makimuuuuuu Radiotalk https://radiotalk.jp/program/45589



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