安らぎを見つけるヨガポーズ|心のヨガ「アヒムサ(非暴力)」を体現しよう

 安らぎを見つけるヨガポーズ|心のヨガ「アヒムサ(非暴力)」を体現しよう
Tabia S. Lisenbee-Parker

ヨガジャーナルアメリカ版の人気記事を厳選紹介!自分を受け入れて、心の平安を見いだそう。キング牧師に啓発された、世界的ヨガ講師・チェルシーが考案したこのヴィンヤサを丁寧に行えば、自分のためにも自分以外の人のためにもアヒムサ(非暴力)の愛を実践できるようになる。

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心のヨガ「アヒムサ(非暴力)」を体現しよう

ヨガを始めて16年目のことだ。私はシャヴァーサナ(亡骸のポーズ)で横たわりながら自分が泣いていることに気づいた。大好きなトレーシー・スタンレー先生が指導するヨガニードラに浸りながら、それまで自分を敵視していたことを認識したのだった。何百回もシャヴァーサナを行ってきたが、このシャヴァーサナの最中に何かが起きた。身をゆだねること、心の平安、そして受け入れることとは何かが垣間見えた気がした。このとき静寂に包まれながら、これまで自分自身を支配したり、批判したり、比較したりしようとしていたわけではないことに気がつく一方で、自分に対して愛と思いやりが足りなかったこと、自分を深く愛する方法を知らなかったことをはっきり認識した。私がヨガニードラを通じて出会ったのは、深みのある英知と何かを育てるということだった。ヨガニードラのおかげで事実を直視し、それまで否定してきた自分自身の部分(たとえば、休む必要があることや、大切にされたい、抱きしめられたいという気持ち)を認める強さを得ることができた。 

「自分が実践していないものを教えることはできません」。トレーシー先生の言葉が全身の組織に染み込んできた。私はこの言葉を聞いて、自分を厳しく問いただした。 
「私自身が自分を丸ごと受け入れていなければ、自分の体を思いやることをどうやってヨガの生徒たちに教えることができるだろう。自分の特定の部分を拒否していたら、どうして生徒たちが私を信頼してくれるだろう」

ただ、このとき私はヨガとトレーシー先生の指導によって抱きしめられていることを実感できたので、自分からの詰問と非難をやり過ごすことができた。また、いつもであれば、周囲の人に気づかれる前に涙と感情を拭い去ってしまっていたと思う。このときは、他の人にどう見られるか、感情を解放していることをどう思われるか、なんて気にかけなかった。

私はこのシャヴァーサナをしている最中に、自分の苦しみを受け入れて、自分自身を深く思いやることができたので、きっと自分に対してそれまでとは異なる顔を見せていたと思う。今ではマットの上に立つといつでも、支配されず、批判されず、比較されなかったあのときのことを体が思い出すようになった。苦しみから解放される道は思いやりがあるところにだけ存在することを私の体は思い出すのだ。

行動にみる自愛

子供の頃にマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の業績について学んでいて、「思いやり(コンパッション)」という言葉を初めて聞いた。私にとって思いやりとはいつだって、自分以外の人にだけ示すことができるもののように思われた。キング牧師は、社会的な不公平や不平等を問題にするときに、思いやりについて具体的に語っていた。また、アフリカ系アメリカ人が疎外と抑圧の構造のなかで押し付けられた社会的条件について語るときに、思いやりやその欠如を問題にした。キング牧師は政府に対して、不平等に苦しんでいる人や地域の声に応えることを求め、疎外と抑圧は基本的人権を否定された人々だけでなく社会全体に影響を及ぼすことをあらゆる人に知ってほしいと願っていた。キング牧師は他の人に関心をもって共感することを求めた。「ここに思いやりと非暴力の真の意味と価値があります。思いやりと非暴力によって、敵の視点を知り、敵の問いに耳を傾け、敵から自分がどう評価されているか理解できるとき、そこにその真の意味と価値があるのです。敵の目で見れば、確かに私たちの境遇のなかに基本的な脆さがあることがわかります。私たちが人格的に成熟していれば、この境遇から何かを学んで、敵と呼ばれている兄弟たちから利益を得ることができるでしょう」。キング牧師は語った。

私はキング牧師に教えてもらった。自分の苦しい経験を抑え込んでしまうことは暴力であると。なぜなら、そうすることはアヒムサ(非暴力)を実践していないだけでなく、ヨガを実践していないことになるからだ。ヨガとは、その名が示すとおり、結びつくことや加わることを意味する。自分の存在を認めて受け入れることを否定するたびに、真っ向から自分に対立することになる。シャヴァーサナの最中にはっと気づいて、自分を敵視していたことを認識したあの深い経験について考えてみると、私はキング牧師の言葉を心底受け入れられる。私はあのとき、自分自身から投げかけられる問いをどんなふうに恐れていたか、自分の肉体がどんな苦しみを経験したか、そして、自分にはそのような部分が存在しないように振る舞おうとしていたかという自分の声を聞いた。私はあのときから、社会から突きつけられて鵜呑みにしていた考え方や物語に立ち向かうことができるようになった。そのような考え方や物語が、私には休む価値も抱きしめられる価値も深く愛される価値もないと思い込ませていたのだ。

自分や他の人に深い思いやりが求められる場面とは、私が避けたり、「よい方向に向かわせようとする」傾向のある場面でもあることを自覚した。私は今でも、自分が誰かにかける言葉について、故意ではないものの認識が欠けていて気まずい思いをしたときに、その感情を受け入れる努力をしている。その人の感情を害したり傷つけたりしてしまったときには特にそうだ。これは簡単なことではない。自分のしたことの深刻さを感じないでいるために、急いで自分の過ちの正当性を主張したり、気まずさをごまかそうとして過度に申し訳なさそうな態度をとったりするほうがはるかに簡単である。

自分がヨガをしているときにも思いやりを避けようとしていたことに気づいたのは、シャヴァーサナで感情を解き放っているまさにそのときだった。私は落ち着いてシャヴァーサナを行う機会を自分自身から奪い取っていたのだ。シャヴァーサナをすることは、自分の苦しい叫び声に耳を傾けられるようにじっと動かず静かにすることを意味していたからだ。私はあの深い瞬間を経験したために、たとえ最初は落ち着かないとしても、深い思いやりをもつことが、解放、自由、そして愛につながることを理解することができる。

私にとって思いやりとは、言葉や行動よりも先に沈黙のなかに存在するものだ。今という時に留まって逃げ出さないことを選んだ瞬間のなかに思いやりを見つけることができる。思いやりがあれば、相容れない人の考え方を理解することができるようになり、自分自身について学ぶことができ、自分自身への反応のしかたや、自分に対する思いやりが欠けていることを知ることができる。思いやりとは、じっと静かにして、自分が抱きしめられることや涙を流すことを受け入れることのように思われる。私がシャヴァーサナで泣いたのは、そのとき初めて自分の現実をしっかり受け止めて、本当の意味で自分自身に恩義を感じたからだった。私はマットの上に立つたびに、ヨガの生徒たちや人生で出会うあらゆる人に対して抱くのと同じ共感と愛情を自分自身にも向けられるように、自分を深く思いやることを誓っている。

※表示価格は記事執筆時点の価格です。現在の価格については各サイトでご確認ください。

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by Chelsea Jackson Roberts
photos by Tabia S. Lisenbee-Parker
translation by Setsuko Mori
yoga Journal日本版Vol.71掲載

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