「精神的にとらわれる」とはどういうこと?人がとらわれていくメカニズムとは
「適応障害」という病名をご存知でしょうか。近年、芸能人の活動休止理由としてメディアを通じて目にする機会もあり、どんな病気なのか気になっているという方もいらっしゃるかもしれません。「適応障害」とはどんな状態のことを呼ぶのか。また自分がそうならないためにはどうしたらいいのか。 『「とらわれ」「適応障害」から自由になる本』(さくら舎 勝久寿著)より、もっとも身近で手ごわい「とらわれ」の原因や対処法をご紹介します。
精神的にとらわれている状態とは?
心が「とらわれ」の状態に陥ってしまうことで、発病する可能性があるといわれている適応障害。精神科に通院するほどではないけれど、日常的に息苦しさやモヤモヤを抱えているという方にとって、適応障害は決して他人事ではないのです。精神科医でもある著者の勝さんは、現代では、誰もが適応障害またはその予備軍になりうる可能性があると指摘しています。
「とらわれ」は、一般的な意味として、身体的または精神的に拘束された状態をさします。
身体的なとらわれは、身体が牢屋に入れられているなど、物理的に拘束された状態をイメージするとわかりやすいでしょう。一方で、精神的な「とらわれ」は、誰の目でも確認することは難しいもの。勝さんは精神的にとらわれることを、「意識がその対象から離れられなくなるだけでなく、同時に主観的な世界(精神内界)に没入してしまい、まわりの世界(精神外界=客観的事実)が見えなくなっているという状態」と説明しています。
つまり、目には見えないけれど、心が理由の分からない不透明な壁(モヤモヤ・不安)にどんどん囲まれていき、ついには完全に牢屋に閉じ込められたような精神状態になってしまう……これが「とらわれ」の正体というわけです。
とらわれに似た言葉として、「執着」や「こだわり」が思い浮かべられることもありますが、この二つと「とらわれ」には違いがあります。
執着したり何かにこだわったりしているときは、「そのことに集中はしているけれど、ほかの人が語りかければ、それに応じることができる状態」。一方、とらわれているときは、「ほかのことは見えなくなり、心に語りかけられても応じることができない状態」。
心がとらわれてしまうと、人は客観的に物事や対象、または自分の心に目を向けることが難しくなり、「まわりはわかってくれない」「自分だけが苦しい」という主観が強くなっていってしまうのです。主観が強く濃厚になることで、次第に自分のなかの「思い込み」も増えていきます。最終的に、自分が思い込んでいることにすら気づけなくなってしまう状態になると、いよいよ心が牢屋に閉じ込められてしまいます。
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ヨガジャーナルオンライン編集部
ストレスフルな現代人に「ヨガ的な解決」を提案するライフスタイル&ニュースメディア。"心地よい"自己や他者、社会とつながることをヨガの本質と捉え、自分らしさを見つけるための心身メンテナンスなどウェルビーイングを実現するための情報を発信。
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