安心したい、でも飽きたくはない…|名もなきアンビバレンス(引き裂くような相反欲望)
アンビバレンスとは、「相反」という意味。「したい、けど、したくない」というような、引き裂くような相反を自分の中に感じたとしても、どちらかに決めようとしなくていいのです。昼と夜が一続きであるように、相反する感情が混じり合いながら自分の中にある、そのことをただ感じていきましょう。
“確かなもの”に守られることは、幸せなこと?
いい学校。いい会社。いい結婚。いい家庭。
“確かなもの”に守られることで、安心できる気がしてた。
けれども何かに守られることで、閉じ込められる気もしてて。
そんな名もなき感情を、名付けぬままに受容する。人間の性のあり方について、頭にある言葉だけで肯定・否定・断定をするのではなく、ヨガの思想をヒントにイメージを広げて感じていく連載、「名もなきアンビバレンス」をお送りしています。
前回は、「女性/男性/中性/無性……」とか「同性愛/異性愛/両性愛/無性愛……」とか、LGBTかそうでないかとか、「性のあり方を言葉で区別される感じ」のその前の感覚について、ヨガの教典「ウパニシャッド」の「蜜」のイメージをヒントに取り戻す試みをいたしました。
そんな前回が「自己のあり方」の話だとするなら、今回は、「他者との関わり方」。人間関係を築いたり、また、人間の築いた組織で生きる中で、「安心したい。でも、飽きたくはない」と思う気持ち……例えるなら「お家の中は安心するけど、窓の外にも憧れてしまう」という感じについて、語っていきましょう。
格好つけずにはっきり言えば、こういう感じのお話です。
・仕事に慣れてはいるけれど、今のまんまでいいのかな
・パートナーには安心するけど、恋の刺激も欲しくなっちゃう
・家族のことは愛しているけど、正直不自由感じてしまう
・「自分」を見つけた気がしてた、なのに「自分」に飽き飽きしてる
このような「安心したい、飽きたくはない」感じ。急に投げ出したくなっちゃう感じ。守られているようで閉じ込められているような、出ていきたいけど失いたくはないような、そんな感じ。
そんな「不自由な安心と自由な不安」の間に立ったとき、あなたが取る行動はどんなものですか。よくあるケースを挙げていくなら、次のようなものだと思います。
(1)嘘をつき、こそこそと抜け出ては戻る。
(2)振り切るように全て投げ出す。
(3)願望を否定し、自分を責める。
(4)誰か”心のままに行動してよいのですよ”みたいなことを言ってくれる人を探すことで、自力での決断を避ける。
(5)たとえば「○○した人の末路」みたいな記事を読んだりして、「行動に出た結果不幸になった人」を見ることで衝動を抑えようとする。
あなたには、心当たりはありますか?
やってみた結果、自由になれたと思うでしょうか?
頭で、言葉で考えるのも、対策の一つです。けれどもここは、ヨガジャーナルオンライン。スマホを片手に座り込んで頭だけで考えるのではなく、ここにある全身の感覚を研ぎ澄ますことで感じるというヨガ的な対処法もあるはずです。
不安でも自由を求めたくなる…もがいてたいの?
安心する不自由から、不安でも自由を求めたくなることについて。まず実例を、それからヨガ的な捉え方の一例をご紹介しましょう。恐縮ですが、わたしの例をお話します。
女性とされる体で生きて、女性を愛してしまうこと。ずっと、悲しいと思ってきました。十歳で初恋をしました。相手は同性、女の子でした。
「十年後にどんな大人になっていたいか、二十歳の自分を描いてください」
そんな課題が学校で出て、わたしは、「あの子と居たい」と思いました。小学校を出て離れ離れになった先でも、あの子がどんな大人になっていくのか見ていたい。寄り添っていたい。笑い合いたい。辛いことがあるなら手を貸したい、役に立ちたい。あの子がいつか死んで消えてしまうのが怖い。だから、あの子との間に赤ちゃんが欲しい——。そう思ったのです。
あの子と、わたしと、赤ちゃんと。そんな姿を、画用紙には描けませんでした。女同士だなんて、大人に怒られる、あの子に嫌われると思ったから。
こんなにも強い気持ちがありながら、この体ではあの子を愛せない。この国ではあの子と生きていくための結婚制度が男女カップルにしか開かれていない。自分の体に、この世の仕組みに、閉じ込められているような気持ちになりました。誰もいない部屋で、一人きりでナイフを振り回したことがあります。美術館で、キャンパスをビリリと破ってその向こう側を見せる作品を見て、「この辛すぎる現実もこうやってナイフで引き裂いたら向こう側が見えるんじゃないか」と思ったのです。
もがき続けました。男装をしたり、同性どうしにも結婚制度が開かれている国で暮らしたり。愛する女性と抱き合った後、眠る彼女の側で、一人お腹に手をやって、相手も自分も妊娠する空想に浸ったり。そのあと自分で自分が気持ち悪くなって吐いて、ふざけて「つわりだ」って笑ってみたり……。
「女性は男性と結婚するものだ」という圧に負けなかった自分は、自由になることができたのだと思っていた。なのにどうして、“この身体に閉じ込められている感じ”が、どこに行ってもついて回るんだろう。もっと言えば……「自分を受け入れる」「愛する人と家族になる」というような、自分が望んでいたはずの安定を手に入れたはずなのに、どうして、涙に溺れていた頃の苦しい快感を忘れられないんだろう。「同性愛者」とか「同性婚カップル」とか、そういう型にはまっていくのが、どうしてこんなにも怖いんだろう……。
浮かんだはず。でも、もがいてたいの?
悩む中で出会ったのが、シャドウヨガの先生でした。先生はヨガのレッスンを通じて、徹底的に、生徒たちが身体の内側に対して感覚を開くことができるよう導いてくださいました。具体的に言うと、「息をゆっくり吸って。肺胞の一つ一つが膨らんでいくのを感じながら」とか。
空気を取り入れ、そして吐き出す。
数え切れないほど繰り返してきた、呼吸。
呼吸をしているときに、「呼吸をしようという意識」ではなく「呼吸により起こっている感覚」とでもいうべきことに集中していると、不思議なことが起こりました。入ってくる息の冷たさ。それが身体の深部の体温に馴染んでいく感じ。「自分」が「世界」に溶け出すような、「世界」が「自分」に溶け込むような、床の上に在ると同時に宇宙のなかに在るというような、そんな感覚が、言葉ではない身体感覚として体感されたのです。
自分で性別を選んだわけではない、この身体。この身体を持って生きるという不自由に対し、この身体を以てもがくことで、自由のために行動している自我の存在を感じようとしていたのだ。と、わたしは気が付きました。いわば、自由を感じるために、不自由が必要だった。壁を越えた解放感が忘れられず、また次の壁を探すような、そんなことを繰り返しているのだと気がついたのです。
このことをヨガ哲学的に考えてみましょう。
ここでヨガ哲学と言っても、人間が考えることですから、いろんな説、いろんな学派があります。前回は「人間が言葉で物事をどんなに細かく区別したって、様々に呼び分けられる花々から集められた蜜がとけあうように、全ては“有”、とけあう一つの大いなる“有”の中にあるんだよ」という考え方を紹介しました。今回は、この例えでいくなら「とけあう蜜を感覚しよう、(言葉を使うかどうかは別として)どういう組成で蜜ができているのかを探求しよう」と考えた学派、サーンキヤ学派が考える「心」と「自由」の話をします。
まず、「サーンキヤ」とはどういう意味か。これは、漢字で書けば「数論」です。「この世の中が、あれとこれとそれでできているよね。」なんて、数え上げるように分析することで解き明かそうとするものでして、もともと「数」という意味です(*1)。
とけあう蜜のような世界を、まず、サーンキヤ学派が何と何に分けるかと言いますと……
純粋精神……触れられない、意識そのもの。
根本原質……触れられるような、世界の材料。
要するに「精神と物質」みたいな分け方をします。ここまではまだ馴染みがある、いわゆる「心身二元論」に近いようなものですね。人間は心と身体でできている、と。
ところが。
サーンキヤ学派の人たちはこう考えました。
「人間が心だと思っているものの働きも、実は物質によって引き起こされているんだ」
そして、心をこのように四つに分類しました(*2)。
知覚
自我意識
思考
記憶
「心」も、「身体」も、実は、物質。そのことを思い出して、物質としての自分に引っ張られない本来の純粋精神でこの世界に対峙するとき、本当の自由が戻ってくるのだ。と、サーンキヤ学派の人たちは考えました。自分が「自分の心」だと思っているものが、どのように発生してきたものなのか、徹底的に段階を踏んで数え上げていくことで、心の発生過程の逆方向を辿っていけるようにしたのですね。自分が自分として生まれ出る前の、全てと一体だった頃の感覚を理解する……というような。
いや、でも、ここまでは、めちゃくちゃ頭で考えてますよね?
じゃあそれを頭だけじゃなく全身で思い出すために、もう一度感じるために、サーンキヤ学派の人たちは具体的に何を実践したの? と言いますと、瞑想です。
瞑想って、呼吸がとっても大事ですよね。呼吸によって、「とけあう蜜のようにここに在ること」の理解を深めていく。自分を世界に溶かし出す。世界を自分に溶かし込む。その先で、物質が引き起こす「心の働き」や「ここに在る肉体」を「自分」だと勘違いしている状態から脱し、純粋精神そのもので感じることが本当の自由だと、サーンキヤ学派の人たちは言っています。ちなみに、こうした「自己」のことを、ヨガ用語で「アートマン」と言います。そして、この「アートマン」という言葉……「呼吸」をも意味しているんですね(*3)。
安心したい。飽きたくはない。自由を求めて彷徨い続けることで、進むにしても、とどまるにしても、それぞれのオリジナルの人生の軌跡が描かれていきます。けれど、それがあまりに苦しいと思ったら。安心を犠牲にしたのに手に入らなかったもの、安心できていたのに失ってしまったものを思って涙が止まらないなら。
一つの捉え方として、ヨガ哲学を思い出してみるのもいいかもしれません。自由という字は、「自分に由る」と書きます。そして、ヨガ哲学で言う「本来の自分」——「アートマン」とは、ここに在ると感じる「身体」、ここに在ると思っている「心」の、もっともっと深くへ分け入った先にあるものなのです。
ただ、呼吸を重ねて。
*1 川崎信定「インドの思想」筑摩書房刊 2019年 電子版第12章「哲学的思索の深化——サーンキヤ形而上学とヴァイシェーシカ自然哲学」
*2 「Yoginiアーカイブ ヨガを深く学びたい!」エイ出版社刊 2019年 p.21
*3 山口泰司「サルヴェパリー・ラーダークリシュナン 『インド哲学』 3」明治大学学術成果リポジトリ 2017年 明治大学教養論集, 529: 207-258. p.223
ヨガ監修/谷戸康洋
ヨガ哲学講師。ポーズを深めるテクニックや個々にあうアジャストメントや練習方法、ヨガ哲学クラス、ヨガ×キネシオロジーのヨーガセラピーなどはオリジナリティーに溢れた人気クラスを開催。本誌連載「漫画で読むヨガ哲学」で監修を務める。
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AUTHOR
牧村朝子
文筆家。87年生まれ、神奈川県出身。著書「ハッピーエンドに殺されない」「百合のリアル」ほか。性/旅/歴史/言語をキーワードに、国内外を取材しながら、時代や差異で隔てられる人と人を「つなぐ・つづける・つたえてく」執筆活動を行う。海が好きで、ビーチヨガ・SUPヨガ・シャドウヨガが好き。twitter https://twitter.com/makimuuuuuu Radiotalk https://radiotalk.jp/program/45589
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