執着や未練を手放そう!「断捨離」3つの行法とは|龍村修氏にインタビュー

 執着や未練を手放そう!「断捨離」3つの行法とは|龍村修氏にインタビュー
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不要な欲求を断つ「断行」

行法の一つに、断食、断性、断財、断家庭(出家)、断社会(独居冥想)があります。時々離れてみる、別れてみる、無いつもりになって生きてみると、正しい見方、受け取り方が生まれ、物の価値、ありがたみ、必要性、恩、自分の位置、自分の責任などを、改めてしみじみ味わうことができます。

沖ヨガ道場では、典型的な断行として断食を行っていました。単に食べないことではなく、その行を通じて食べたいという心の勝手な動きを断つ「断心」を行い、自分の食習慣を変え、心の習慣的動きを捉えていく練習をするのです。

断食行を体験すると、食べないと力が出ないと思っていたのが、実際やってみると食べなくても数日間は耐えられることがわかります。体が軽くなり元気に動かせたり、いざ食べ始めると食べることは疲れると気がつくことも。

また、断食をはじめて最初のうちは、辛さゆえにいろいろな心理状態の変化が生じます。だからこそ食べられずに苦しんでいる人々へも自然と思いが及ぶし、物のありがたさもわかる。食欲という強い本能を自分の意志で抑える苦しみを体験することによって、自信が高まり意志も強固になっていくのです。

こだわりを捨て、本来の自分に立ち返る「捨行」

捨行というのは、自分の願望やこだわり、あるいは持ち物など自分の一部だと思っていることや物を捨てる行法。この行法を通じて、そこからくる執着や依頼心に気づき、とらわれのない視点で裸の自分を見つめ、本来の自分に立ち返ります。

全く使わない衣服がクローゼットの半分を占めている…なんてことはありませんか?持ち物には、その人のクセや執着が反映されています。改めて見直すことは、無意識のうちに不要なものにとらわれていることに気づかせてくれます。物が捨てられないというのは、物ではなく心の問題です。「なぜこれが捨てられないか」と自分に問いかけることで、自分のことを知っていくのです。すなわち物を捨てるということは、物を通じてあったに心の執着から解放されることなのです。

沖正弘先生は著書「捨の心」の中で、こう仰っています。

捨の心とは求めぬ心である。離れた心である。忘れた心である。気にかけぬ心である。ひっかからない心である。執着せぬ心である。そのまま受け取る心である。

歴史に残る捨行の例として、釈尊(お釈迦様)の逸話があります。釈尊は地方豪族の王子でした。豪華な王城内での生活を持ちながらも、妻子を捨てて出家された。一旦全てを捨てて何もない立場をつくったのです。この捨行を実践されるという行為がなければ、仏教も生まれてなかったと言えるでしょう。

捨てられない、捨てたらどうなってしまうのかが怖い…そんな思いなどを捨ててみることは、新しい発見に繋がるのです。

しがらみから外れる「離行」で新たな視野が開ける

「捨行」は目に見える物だけでなく、自分の地位や立場にも言えること。そしてそれは「離行」でもあります。離行とは、家や家族、会社、自分のいるコミュニティから離れることで、その中にいたら気づかなかったことに気づくこと。そしてとらわれのない自由なものの見方、考え方、生き方ができる自分を育てることです。「井の中の蛙」というように、特定の狭い所で生活していると、視野が狭くなっていきます。家や会社、生まれた国を離れることで、初めて無自覚にとらわれていたものの見方や偏った価値観から自由になれるのです。

例えば会社の部長だった人が、会社を辞めた途端に年賀状が来なくなったり、お誘いが全くなくなると、自分自身ではなく部長という地位がもたらす恩恵だったと気づきますよね。案外、捨ててみないと自分自身についてわからないものなのです。

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Photo by Kenji Yamada

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Photos by Kenji Yamada
Text by Nobue Suzuki



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