なぜ女性は電車で足を閉じて座り、一部の男性は足を広げて座るのか

 なぜ女性は電車で足を閉じて座り、一部の男性は足を広げて座るのか
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エコーチェンバー現象や排外主義の台頭により、視野狭窄になりがちな今、広い視野で世界を見るにはーー。フェミニズムやジェンダーについて取材してきた原宿なつきさんが、今気になる本と共に注目するキーワードをピックアップし紐解いていく。

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電車の中で、男性が足を広げて座っているのを見かけることがある。隣の席のエリアまで侵入していたとしても、気にする様子がない。隣に座っている人は、不快に思っても、どうすることもできない。

電車などで足を広げて座る男性の行為を、マンスプレッディングという。マンスプレッディングとは、男性を意味するManと、「開く」を意味するSpreadを掛け合わせた、英語圏で誕生した造語だ。

この言葉が生まれたのは、隣に座った男性が足を広げて自分のエリアまで侵入してくることが、「あるある」だったからだ。マンスプレッディングがアメリカ、カナダ、イギリスなどでも使われていることから、世界共通で見られる光景であることがわかる。

ところで、電車で大股を広げて座る迷惑行為を堂々と行うのは、なぜその多くが男性なのだろうか。なぜWomanspreadingではなくManspreadingなのだろう。

「女らしさ」「男らしさ」は生来備わっているものではなく、学習によるパフォーマンス

なぜ男性は公共の場所で足を広げて座るのか。足を広げ座る方が楽なのは性別問わず当たり前だが、公共の場所では行儀よくするのがマナーだというのに。

男性がマンスプレッディングをする理由は、「男らしさ」が関わっていると言われている。「男らしさ」において、男性は強く、大きくあることが推奨され、マンスプレッディングは、男性が男らしさを誇示するための無意識の威嚇行為なのだ、と。

一方、女性は、小さい頃から足を広げて座ることを注意されがちだ。「女の子なんだから行儀よく」と言われることも多い。繰り返し言われることで、「女の子が足を広げて座るのは、はしたない」と認識し、足を閉じて座るようになる。つまり、女性が「女らしく」育つのは、教育によって行動が変わってくるからだ、と言える。

哲学者のジュディス・バトラーは「女らしさ・男らしさ」が生来備わっているものではなく、パフォーマンスの繰り返しによって達成されていくものだ、と言った。

藤高和輝著『バトラー入門』(ちくま新書)では、詳しくバトラーの思想が紹介されているので、そちらを引用してみよう。

一般的に「生来の本質」が「外側」に表出されたものとして考えられがちなジェンダーという「行為」だが、実は、その「行為/パフォーマンス」の反復や積み重ねによって、「内側」にあるとされている「本質(とされているもの)」があたかも最初から存在するかのように事後的に作られていく、というのがバトラーの見方だ(P.74)

これを、「ジェンダー・パフォーマティブ・モデル」という。つまり、ジェンダーとは、所与の物ではなく、常に「行う」ことで「なる」ものなのだ。

女性は最初から足を閉じているわけではない。もし最初から足を閉じて生まれてきているのなら、「女の子なんだから、足を閉じなさい」と言われる女はいないはずだ。

人は女に生まれるのではない、女になるのだ。いや、「なることを強制される」のだ

女は学習によって女になり、男は学習によって男になる、と聞けば、ボーヴォワールの「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という有名な言葉を思い出す人も多いだろう。

『バトラー入門』では、この有名な表現は、ある種の誤解を招きやすい、と指摘している。「〜になる」という表現には、能動性や自発性を想起させるところがある。あたかも、女性になるために自発的に行動するかのようなニュアンスが感じられる。

しかし、女らしさ・男らしさとは、能動的・自発的に掴み取ろうとする以前に、むしろ、強いられるものだ。正しい「らしさ」に従わないと、「足を閉じなさい」と注意され、「はしたない」と罰せられる。ジェンダー規範からの逸脱は処罰の対象になるのだ。

ジェンダー規範とは、どんな人間が「真っ当な人間」としてカウントされ、そして、どんな人間がそこから周縁化され、排除されるか、その「理解可能性」の枠組みを規定する物である。ジェンダー規範とはこの意味で「脅し」であると言ってもいい。それは、「そこから逸脱すれば人間として扱われないぞ」という「脅し」なのだ(P.267)

女らしさ・男らしさの強制は形を変えて続く

女らしくあれ、男らしくあれ、そうでなければ嘲笑われるか罰せられる、となるならば、「らしさ」に沿ってパフォーマンスを行うのは自然な流れだ。

しかし、同じパフォーマンスを続ければいいというものではない。「らしさ」は普遍ではなく、時代とともに変わっていくものだ。

例えば、一昔前は、「女性なら料理や掃除、育児、介護など、家事やケアができるのが当たり前であり、それこそが女らしさ」という規範が強固あった(いまでもある)。それゆえに、テレビ番組では家事ができない若い女を笑ったり、ドラマでは料理ができない女性がダメな女として笑いの対象にしたりする表現も多く見られた。しかし、現在はそういった認識が薄れつつある。

令和6年9月現在、『西園寺さんは家事をしない』(ひうらさとる原作)というテレビドラマが放送されている。主人公はアラフォーの女性・西園寺さん。家事はほとんどせず、外注している。このドラマでは、家事をしない女性がネガティブに書かれていない。西園寺さんは、単純に「家事が苦手なのでしない人」として描かれている。一昔前だったら、家事ができないことを恥じている女性、として面白おかしく描かれていただろう。

時代は変わってきている。そして、これからも変わるだろう。しかし、「らしさ」の強制がゼロになることはない。性別役割規範や、それに違反した際の罰のあり方は、形を変えて続いていくだろう。

いつの時代も性別役割規範から自由ではいられないのだから、時には性別役割規範に自覚的になり、「これは自然な女らしさ・男らしさではない」と証言していく必要がある。

性別役割規範が強固であるゆえに、一部の人はそれが「生来のもの」だと考え、「女性は育児や家事、介護に向いているマルチタスク型」だとか「女性は体の構造上、足を閉じていた方が楽」とか無邪気に信じ込んでいる人もいるくらいだ。信じられないかもしれないが、実際に存在している。それゆえ、「んなわけない」と都度ツッコミを入れていく必要があるだろう。

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AUTHOR

原宿なつき

原宿なつき

関西出身の文化系ライター。「wezzy」にてブックレビュー連載中。



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