女性が自慰を「します」と語るだけで、ザワつくのは何故か

 女性が自慰を「します」と語るだけで、ザワつくのは何故か
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エコーチェンバー現象や排外主義の台頭により、視野狭窄になりがちな今、広い視野で世界を見るにはーー。フェミニズムやジェンダーについて取材してきた原宿なつきさんが、今気になる本と共に注目するキーワードをピックアップし紐解いていく。

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『私の身体を生きる』(文藝春秋)は、女性の性をテーマにしたリレーエッセイだ。本書では、個人の体験をベースに、病気によるままならない身体や、性自認の揺らぎ、性的指向、妊娠や流産、性被害などが切実に綴られている。

自慰は自然なこと。……しかし、公に語ると……

著者のひとりである小説家の村田沙耶香によるエッセイ『肉体が観た奇跡』は自慰について書かれていた。村田は、物心ついたときにはすでに、自分で達することを知っていた。自慰は自身にとってごく自然なことであり「安心感と接続する行為」でもあったと言う。

村田にとって自慰は、「しない人も含めて、全ての人の身体に眠る、肉体の大切な可能性の結晶」であったため、それが、他者を性的に喜ばせるショーになったり、他者にとって嬉しくない汚物のように扱われたりするのが苦しかったという。

村田は自慰に対しポジティブに考えていたため、公共の場所で自慰の話題が出た際も、躊躇することはなかった。あるとき、とあるお笑い芸人と飲み会の関で同席した際、「女の子ってオナニーしている話絶対しないでしょ。あれなんで? 嘘つきますよね、みんな。してるでしょ? 卑怯じゃないですか、しないみたいな顔して」と言われた村田は、すぐに「私はします」と語り、自分の幼少期の自慰について説明した。

解散したあと、そのお笑い芸人は、陰で村田について、「あの人、いきなりあんな話して、キチガイじゃないですか?」と、差別的な言葉と共に語っていたという。

女性の自慰行為がタブー視される理由。性的行為の主体は誰か

そのお笑い芸人は「自慰をする」と女性が語っただけであからさまに蔑視してしまうほど、女性の自慰についてタブー感を抱いていたのだろう。

なぜ、女性が自慰について語ることは、タブー視されがちなのだろうか。それは、自慰行為をしていると語ることが、明確に女性に性欲があると語ることとイコールだからなのではないか、と思う。

女性にも性欲がある(もちろん無い人もいる)なんて当たり前のことすぎて書いていてバカバカしくもあるのだが、しかし実際に、女性の性欲はない、または無根拠に男性よりもないはずだ、と思いたがっている人もいる。

とくに、女性が「性的行為の主体となること」は、忌避されがちだ。

世界で作られるAVの6割近くが日本で製造されているというのは有名な話だが、男性向けのAVで語られるファンタジーの多くは、男性が女性に強引(または無理やり、騙して)迫り、いつのまにか、男性の手練手管によって女性が快感を感じ始めるというものだ。一方、女性から積極的にセックスを迫る場合、「痴女」などとラベリングされることもある。

性的行為の主体となる女性は、「痴女」つまり、頭が悪いか、どこかおかしく、普通ではない、という世界観は、「性的行為の主体は男性であるべき」と考える男性によって作り出されたものだ。この世界観はAVの世界に留まらず、現実世界にも染みわたっている。

それゆえ、「自慰行為について語る女性=キチガイ」という発想になったのだろう。

女性の身体を「誰かのもの」扱いする人たち

性愛に関しては、事程左様に女性は主体ではなく、客体とみなされやすい。男性が女性をリードし、先に声をかけ、ベッドに誘い、プロポーズするものだと、それこそが正しい形なのだと、社会やメディアによって何度も繰り返し喧伝されてきた。

現存する日本最古の書物である古事記にすら、イザナミ(女性)がイザナキ(男性)に先に声をかけたために災いが起こり、イザナキがイザナミに声をかけたら問題なかった、という逸話があるほど「女性が性的な主体となること」は嫌われている。

実際、客体でいるほうが楽だと判断する女性もいるだろう。私の友人は、マッチングアプリで自分から男性を選ぶことはなく、声をかけてきた男性とだけデートしていたと言っていた。選ぶより選ばれる方が楽だ、主導権は渡してしまいたい、と思う人も一定数いる。

しかし、主体であることを放棄し続けると、多大なリスクに晒される可能性がある。

本書のエッセイの一遍に、アーティストのエリイによる『両乳房を露出したまま過ごす』があった。エリイは、出産時、会陰切開し、性器を縫った箇所に違和感があったため、担当の男性産婦人科医にその旨を告げた。するとその医師は、「パパが良ければ、いいんじゃない」と言ったとそうだ。

彼は、担当患者の女性の身体を、その夫のための身体だとでも思ったのだろうか。「パパが良ければ、いいんじゃない」という言葉は、エリイではなく、夫を主体として考えなければ出てこない発言だ。エリイは即座にこの発言に対し言い返したが、それはエリイにとって自分の身体は自分のものだという意識が当然のものだったからだろう。

自分の身体と性を主体的に生きる

私の身体は私のものなんて当たり前のことに思えるが、「そうではない」というメッセージを、日々、私たちは受け取っている。

たとえば、中絶の際、相手の同意が必要な先進国は日本以外にない。乳がん啓もうのポスターには、「おまえひとりの、おっぱいじゃないんだぞ」のコピーが踊る。善意の他人からは「女の子は身体を冷やしたらだめ。将来子どもを産む身体なんだから」とアドバイスをされる。自分の身体なのに、誰かの許可が必要だ、お前の身体は俺のものだ、お前の身体は子を産むためにある、とメディアが、法律が、悪意なき普通の人が語りかけてくる。

また、本書のなかで、多数の執筆者が、性被害について言及していた。女性として生きていると、性的客体として眼差され、加害されるケースは残念ながら少なくない。性加害もまた、女性の主体性を強引に棄損する行為のひとつだ。

私の身体を生きる

女性が、自分の身体の、自分の性の主体であることを忘れさせるためのトラップは無数に仕掛けられている。主体であることを放棄した先に待っているのは、「パパがいいなら」と、本人の痛みが無視される地獄であり、女性の性欲は強引に求められた場合にのみ開花するという男性目線のファンタジーの内面化なのかもしれない。

しかし、どれだけ主体性を放棄したとしても、自分の身体は自分の身体であり、痛みや快楽は自分が請け負うことになる。他人は責任を取ってくれないのだから、手術や出産、自慰、性行為、妊娠中絶など自分の身体に関することは、やはり自分で決める必要があるだろう。

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AUTHOR

原宿なつき

原宿なつき

関西出身の文化系ライター。「wezzy」にてブックレビュー連載中。



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