「友情と恋愛や結婚、どっちが大事?」その問いを無効にする
エコーチェンバー現象や排外主義の台頭により、視野狭窄になりがちな今、広い視野で世界を見るにはーー。フェミニズムやジェンダーについて取材してきた原宿なつきさんが、今気になる本と共に注目するキーワードをピックアップし紐解いていく。
※本記事には『スルーロマンス』(冬野梅子著)のネタバレが若干含まれています。未読の方はご注意ください。
友だちは、あなたに配偶者控除を与えてくれない。友だちは、あなたの死の間際、手を握ってくれる相手ではない。だから、将来孤独にならないために、恋愛し、結婚し、子どもを産むべきである。それが、孤独な人生から逃れるための最良の方法なのだ……ここまで直接的な言い方ではないにしろ、この世界には、「恋愛や結婚が、友情よりも大切だ」というメッセージに溢れている。
恋愛や結婚と、友情には明確なヒエラルキーが存在している。しかし、なぜ、「恋愛や結婚が、友情よりも大切」だと考えられがちなのだろうか?
「それなら私も、翆ちゃんと結婚できたらよかったのに」
冬野梅子の漫画『スルーロマンス』(講談社)は、マリと翆(みどり)という、性格も容姿も異なる女性ふたりが主人公の漫画だ。
翆は売れっ子のフードコーディネーター。容姿に自身がなく、恋愛はことごとくうまくいかないが、キャリアは順調で自立しており、しっかり者だ。一方のマリは、容姿端麗でかつて俳優を志していたが、現在は楽なアルバイトを渡り歩く宙ぶらりんの生活をしている。楽観的なマリは、そのおおざっぱさや直情型の性格ゆえに周囲から距離を置かれることも多いのだが、さほど気にしていない。そんなふたりは、いっとき共同生活をしており、お互いの性格を熟知している。
翆が結婚することになったと知ったマリは、「真実の愛を見つけたんだね」と喜ぶが、翆は「恋愛とは別の、情でつながる関係かな」と言う。翆は結婚相手に恋していたわけではない。情が湧き、一緒に暮らしていけそうだと感じて結婚を決めたのだ。それを知ったマリは、「それなら私も、翆ちゃんと結婚できたらよかったのに。私が今まで会った人で一番尊敬する素晴らしい人だもん。私きっと翆ちゃんのためなら頑張れる気がする」と言う。翆の気持ちは一瞬ぐらつく。婚約者の男性と結婚し、妻として、嫁として、娘としての役割を求められる未来を想像し、望まぬ役割を押し付けられる恐れを感じる。しかし、婚約者と結婚することを選ぶ。
翆はマリの欠点をこれでもかというほど知っていたが、それでもなお情はたっぷりあった。ではなぜ翆は、性格を知り尽くし、おそらく婚約者よりも情を感じており付き合いも長いマリではなく、ぽっと出の男性を生涯のパートナーとして選んだのだろうか?
それは、友だちと結婚すること、友だちを生涯のパートナーとすることが、制度として整っていないから、かもしれない。
制度がつなぎとめる関係。制度を利用できない関係
今年のレインボープライドにて、シンガーソングライターの中村中がライブを行ったあと、「結婚制度があればつなぎとめられる関係があったはず」と、同性婚の実現を口にした。たかが紙一枚だというけれど、紙一枚でつなぎとめられる関係があるのだと中村は言う。
恋愛を友情よりも価値があるものとして序列化する背後には、結婚や家族が持続性と確実性の感覚と結びつくことを可能にする法律の存在がある。
しかし、同性同士の場合、結婚という持続性を強化するための制度は使うことができない。そのため、恋愛感情の有無に関わらず、「同性同士の親密な関係は、異性間恋愛よりも脆弱だ」とみなされやすいのだろう。
つまり、「友だち同士はいくら仲がよくても、生涯のパートナーにはなりえない」「同性同士の恋愛は脆い」などの言説は、法律に依存していると言える。
そもそも恋愛と友情を分けることはできるのか
「恋愛と友情、どちらが大切か」といったテーマで議論をする場合、人によって主張は異なるだろう。なかには、その問い自体に問題がある、と指摘する者もいる。
『<友情>の現在』(青土社)では、「性的惹かれをそもそも経験しない多くのアセクシャルたちにとって、恋愛/友情の区別は意味をなさない」と指摘している。
またクワロマンティック(自分が他者に抱く好意が恋愛感情か友情を判断しない、またはできない)の人にとっても、恋愛と友情を分けることは不可能だ。
実際、自分の抱いている感情が、恋愛なのか、友情なのか、区別できない人は少なくないだろう。また、友情が恋愛に変わったり、恋愛が友情に変わったりすることも珍しくなく、その境目は極めて曖昧だ。
以上のことを踏まえると「恋愛と友情、どちらが大切か」という問いに対し、どちらのほうが大切だろうかと悩む前に、「そもそもその感情は分けられるのか」「恋愛や法律という制度によって特権化されているだけではないか」と検討する必要がありそうだ。
友だち、恋人、配偶者、どんな関係にも保障はない。その保証のなさを認識する
『<友情>の現在』によると、恋愛が友情よりも大切であり、伴侶を持つことが推奨されている社会において、しばしばアセクシャルの人々は「大人になりきれていない未熟な人」とのレッテルを貼られてきたという。友人がいなくても、「未熟」扱いされなくても、恋愛相手・結婚相手がいないと「未熟」とされる背景には、「性愛規範性」があるだろう。
「性愛規範性」とは哲学者のエリザベス・ブレイクが批判した、「ロマンティックな愛こそが、普遍的な目標であるという規範」のことだ。現在でも「性愛規範性」は根強く残っているが、ロマンティックな愛が生涯ロマンティックな愛である保証はどこにもない。制度によって、愛を保障することはできないのだ。
友情や同性愛は制度によって守られないために脆弱になりがちだが、異性愛者が結婚し、制度に守られたとしても、その内実は制度に守られず、結婚というガワだけが残り、内実は冷めきった関係、憎しみ合う関係という場合も多いにある。
『<友情>の現在』で大田ステファニー歓人は、「他人との絆なんてなんもしないと薄れるって認識をお互いが持つことが大事」と書く。その通りだが、制度によって結びつけられ、家族として安定したように見える絆も、なんもしないと薄れていくのではないかと思う。
友情、恋愛、どちらに比重を置くのか、また、そのふたつに区別がつくかは人によって異なる。しかし、親密な他者との関係を維持するために、メンテナンスが必要なことは、どのような関係にも言えることだろう。
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