愛着を持つのはそんなに悪いこと?

 愛着を持つのはそんなに悪いこと?
YJ US
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愛着に利点があるとき

大半において、私たちの長きにわたる友情は気高いものだった。それは瞑想的な伝統の教えである4つの最高の愛から生じる、『四無量心』だ。すなわち『メッタ』(慈悲)、『カルナ―』(同情)、『ムディター』(共感した喜び)、『ウペッカー』(平静)だ。この4つの状態は、ヨガと仏教の伝統において、『神の宿る所』、もしくは神の家だといわれている。仏陀はまさにそうした状態を私たちの『真の家』だといった。私たちの真の家ならば、苦しまず、過剰に欲張らず、憎まず、嫌悪せず、無知にならず、恐れず、怒ることはない。
こうした精神的、感情的な状態に不可欠な本質は何だろう?『四無量心』のまさに根底にあるのは『すべての生きとし生けるものに対する優しさ』の一種で、他人に対して善意の状態であり、幸せを祈ること、そして、人生の喜びを共に分かち合い、称賛する力だ。結局のところ、真の友情はこうした開放的な状態を『育み』、最高の状態で、こうした状態に呼び起こす ― 呼び起こし、維持し、確認する。友情は最高の人間性を呼び起こすと知られている。知っての通り、例えば、世界の戦場にいる男女は、まさに仲間への愛による無私無欲の勇気を持った最高の行動を起こす意欲が強い。考え、信条、愛国心や同族への忠誠心によるものではない。だが、個人の愛、真の血の通った友人関係によるものだ。兵士が心臓の側に身に付けているものは?アメリカの国旗でも、フランスの国旗でもない。最愛の人の写真だ。

愛着が苦悩となり得るとき

では、答えの中で『イエス』の部分は何だろう?実際に愛着のどの部分が(もしくは可能性として)何らかの苦悩といえるのだろうか?悩みや憎悪を生み出すのはどの部分だろうか?


まあ、愛着自体が悪いわけではない。悪いのは貪欲で、依存心が強く、欲求を抱き、しがみつくこと ― 他の人がどうあるべきかという考えに対してであり、必ず移り変わり、終わることすらあるつながりに対してであり、決して力の及ばないことを支配しようとすることに対して。それは確かな変化という現実に対する意図的な無知だ。関係の中に『見返り』を作り出そうという試み ― もしくは友情を一種のビジネスのように扱うことだ(『あなたが愛してくれる分だけ愛します』というように)。


深い友情を育んだことのある人なら、その関係の中でこうした苦しい状態を経験したことがあるだろう。広げた手が閉じられる瞬間だ。開いた手が握りこぶしに変化する瞬間 ― きつく閉じて、攻撃的で悪意に満ちている ― それから新しい何かが始まる。それは愛着ではなく、真の愛着を曲解している。真の愛着とは、自分と他者の繁栄の真の形を求めるものだ。実際には、開いた手がこぶしに変わるとき、私たちの本質から引き裂かれるように感じるのでは?自分自身から引き裂かれるのは、不安で、不幸で、孤独だ。
こうした苦しい状態は自然に起こる。でも、仏陀が言ったように、これらは私たちの真の家ではない。つまり心への訪問者でしかないので、私たちは真の友情の中心で、欠くことのできない信頼、善意、好意を傷つけないように、とてもうまく対処することが可能だ。

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Text by Stephen Cope
Translated by Hiroe Humphreys