女同士のつながりを何もかもシスターフッドとするのはあまりにも安易である、ということについて

 女同士のつながりを何もかもシスターフッドとするのはあまりにも安易である、ということについて
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エコーチェンバー現象や排外主義の台頭により、視野狭窄になりがちな今、広い視野で世界を見るにはーー。フェミニズムやジェンダーについて取材してきた原宿なつきさんが、今気になる本と共に注目するキーワードをピックアップし紐解いていく。今回は、『布団の中から蜂起せよ アナ―カ・フェミニズムのための断章』(人文書院)を取り上げる。

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近年、シスターフッドと銘打った映画やドラマ、小説、漫画が珍しくなくなっている。

「女同士ってドロドロしてる」というステレオタイプの女性蔑視物語のウケが悪くなり、女性が共闘することに魅力を感じる人が増えてきているようだ。

作家の柚木麻子の作品は、女性同士の関係を描いたものが多い。柚木は、「これまで女同士のドロドロ」と評されてきた自身の作品があるときを境にシスターフッドと解釈されるようになった、と言う。シスターフッドという概念が身近になることで、物語を解釈するツールが増えたようだ。

女性主演、女性同士の物語が、まだまだ足りない

女性や女性同士のつながりをメインに添えた物語が増えることは、同じ女性としては嬉しいことだ。この世界にはまだまだ、女性を主演にしたストーリー、女性同士の連帯を描いたストーリーは少ない。

2018年のハリウッドでは、興行収入が多い100作品のうち、女性俳優が主演のものは約3割で、7割は男性俳優が主演の作品だという。また、賃金にも大きな差があり、同じ主演級の役でも、女性俳優は男性俳優の4分の1か3分の1程度の賃金しかもらえていないことも珍しくないという。(※1)

アメリカの男女俳優の賃金格差や出演作品格差はたびたび記事になるが、日本はどうだろうか。正確なデータはないが、ざっと新作映画を見比べてみるだけでも、男性主演のものが多いことがわかる。女性がメインの場合、アニメや女子高校生などの若い世代になることが多く、年配になってからも活躍できるフィールドが多い男性俳優とは条件が異なっているようだ。女性が主演だったり、女性同士の関係を描いたものは、「ガールズムービー」と言われるのに、男性同士のものは特段言及されることはない、という現状からも、まだまだ男性を主演に添えた物語が多いことがわかる。半沢直樹はボーイズドラマと銘打たれないし、男同士のドロドロ、とも評されない。

こういった不均衡を変えていくためにも、シスターフッドにスポットが当たり、シスターフッドモノは売れると目されるのは良いことのように思える。

しかし、中世社会史研究者でアナーカ・フェミニストの高島鈴は、著書『布団の中から蜂起せよ アナ―カ・フェミニズムのための断章』(人文書院)にて、女同士の関係だからというだけでシスターフッドとラベルづけすることに疑義を呈している。

『布団の中から蜂起せよ アナ―カ・フェミニズムのための断章』(人文書院)
『布団の中から蜂起せよ アナ―カ・フェミニズムのための断章』高島鈴・著(人文書院)

シスターフッドとは? 女性が常に分断を迫られてきたことに対する抵抗

高島は「女性同士の関係であるというだけでシスターフッドと呼ぶのはやめるべきだ」と言う。

”家父長制を筆頭とする抑圧装置の存在に無自覚な関係性、あるいは抑圧装置の存在を自覚しながら受容している関係性を、シスターフッドと呼びたくはない。元来シスターフッドとは、諦めから最も遠く、破壊に最も近い概念であったはずなのだ”(P.50)

高島によると、シスターフッドとは1960年ごろに生まれた言葉であり、ラディカル・フェミニズムの文脈で掲げられてきた言葉だ。ここでいうラディカルとは、過激な、という意味ではなく、「根源的な」「抜本的な」を意味する。生活の隅々にまで男性支配が埋め込まれた世界で、抜本的な変革を求めようというのがラディカル・フェミニズムなのだ。男性優位社会においては、女性は男性との関わりのなかで従属的に位置づけられるばかりで、女性同士の関わりは軽視され、分断を迫られてきた。この構造に立ち向かうために、女性同士の連帯が必要とされたのだ。

つまり、シスターフッドとは、元来女性が男性との関係のみにおいて語られ、常に分断を迫られてきたことに対する抵抗だった。

そう考えると、現代の日本において、シスターフッドが求められることはある意味当然のことだと言えそうだ。女性同士の関係の軽視や分断は、今も脈脈と続いている。「女同士の職場ってコワい」「女の友情は脆い」「女同士はマウントのとりあい」「女同士はドロドロしている」……といった言説から透けて見えるのは、「女同士は団結していてほしくない」という意思だ。

「女性同士の関係であるというだけでシスターフッドと呼ぶのはやめるべきだ」という高島の主張に、私は賛同する。というのも以前、シスターフッドと銘打った映画を観に行った際、ひどい目にあったことがあるからだ。

その映画は、「新感覚シスターフッド・ムービー!」と銘打たれていた。主人公は、お兄ちゃん大好きな女子高校生。兄が婚約者がいるにもかかわらず浮気をしていることに気づいて、浮気相手の女性と接触する。この主人公と浮気相手が仲良くなってい様子が「シスターフッド」らしいのだが……登場人物の女性たち(女子高校生の妹、献身的な婚約者、美しい愛人)が全員、男を愛しており、男を必要としており、男性優位を受け入れている。ずいぶん家父長制に都合のいい「シスターフッド」だな、と感じた。

「シスターフッド」がラベルとしての価値を増すに従って、もっともシスターフッドから遠い物語ですら、「シスターフッド」とラベリングされ、市場に出回っている気がしてならない。女性同士の強いつながりの表象がまだまだ足りていない現代において、注目を引くためにつけられた「シスターフッド」というラベルに対し、「それはシスターフッドではない」といちいちツッコむのも野暮なのかも……という気持ちもあるのだが、やはり本来の意味を忘れてはならない、とも思う。

『布団の中から蜂起せよ アナ―カ・フェミニズムのための断章』では、シスターフッドの歴史や意義と価値、問題点、現代に求められるシスターフッドについて触れたうえで、読者にシスターとして連帯することを呼びかけている。シスターフッド概念がポップになっていくなかで、性差別を根絶するため、「マジで革命を起こすため」の戦略的シスターフッドを提唱する高島の言葉は、「諦め」からもっとも遠い。

※1 FRONTROW

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AUTHOR

原宿なつき

原宿なつき

関西出身の文化系ライター。「wezzy」にてブックレビュー連載中。



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『布団の中から蜂起せよ アナ―カ・フェミニズムのための断章』(人文書院)