【インタビュー】貧しいのは努力が足りないから?「自己責任論」に潜む問題と、思考を変えるヒント

 【インタビュー】貧しいのは努力が足りないから?「自己責任論」に潜む問題と、思考を変えるヒント
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貧困問題に対して「努力が足りない」「もっとこうしておけばよかったのに」「○○する方法もある」など自己責任の問題とする声は少なくない。生活が苦しいのは本当に個人の責任なのだろうか。貧困家庭で生まれ育った経験を持つヒオカさんの『死にそうだけど生きてます』(CCCメディアハウス)を読むと、生まれた家の経済力によって選択肢が変わってくることに気づかされる。ヒオカさんに自己責任社会や自己責任論がもたらす分断、自己責任論から思考を変えるヒントについて話を伺った。

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経済力がなければ同じスタート地点に立てない

——ヒオカさんは「自己責任論と戦うライター」と名乗っていますが、自己責任論についてどう感じていますか。

自己責任論は「努力が足りない、支援されるべきじゃない」と人を一方的にジャッジしたり、”本当に困っている人とそうでない人”を勝手に選別したりするための道具として使われています。社会や政治の責任を不可視化するものですし、本質的には誰の幸せにも繋がっていない、不毛なものだと思います。

——貴著を拝読すると、生まれた家(経済力の違い)によって選択肢が変わることに気づかされます。

高校以降、実家の太い人が周囲にいる環境で過ごすことが多いのですが、見えている世界が違うとはよく感じます。高校は進学校だったのですが、周囲に貧困家庭の子はいませんでした。うちは父は仕事を転々とし、母はパート勤務でしたが、同級生は両親が安定した職に就き、経済的に中流以上の子が多かったです。

生活水準の違いも明らかで、たとえば私は家で大学の話が出ることは一切なかったですし、親戚含めて中卒が当たり前で「高卒は贅沢」と聞かされていたくらいでした。でも周囲の同級生は中学時代から大学に行くよう親から言われていたり、私が行きたくても行けなかった塾は「無理やり行かされるもの」として会話にあがっていたり、コンビニに行けば迷いなく飲み物やお菓子を買ったりしていました。

自分の周囲には自分に近い経済状況の人が集まりやすい構造がある中で、自分の周囲が社会の縮図だと思って皆生きています。なので、本人たちは自分が社会全体で見たらどういう経済力の位置にいるのか、恵まれた環境にいるかについて無自覚なんですよね。ただ、恵まれていることを責めているのではなく、見えていないがゆえに「自分と同じことをできない人は努力が足りないから自己責任」とジャッジしてしまうことを問題視しています。

——具体的に何か的外れだと思うアドバイスをされたことはありますか。

「シェアハウスがつらい」と話して「一人暮らししたらいいのに」とアドバイスされたことは何度もあります。シェアハウスの方が家賃が安いですし、光熱水費も家賃込みになっていたり、定額だったりするので、一人暮らしで安い物件を借りるよりも生活費を抑えられる。通常の賃貸だと初期費用もかかりますよね。ただ節約したいのではなく、一人暮らしをするだけのお金を捻出するのが難しいから、カビが生えていても、落ち着いて住めるような環境でなくてもシェアハウスを選ばざるを得ないのに「なぜ一人暮らししないの?」と言われてしまうんです。

かといって生活が苦しいことを正直に話すのにも抵抗があって……。話したら「特殊な子」だと思われてしまう気がして、小学生の頃からずっと“普通の子”を演じようとしていましたし、今でも聞かれなければ言わないです。本には大学時代にヨレヨレの下着を着ていて友人にイジられ、その後一緒に下着を買いに行ったエピソードを書いていますが、彼女たちにも話していません。多分貧しいとは気づいていなくて、単にズボラでおしゃれに無頓着な子と思われていたのではないかと。

——ネットを見ていると、貧困問題について「もっと努力すればいい」「うまくいってる人もいる」など自己責任にしようとする声も少なくないです。

生活が厳しいと目の前のことで精一杯になって、情報にも繋がりにくくなってしまう問題もあって「生きるのが下手」になってしまうんです。色々なことについて「その選択肢をとらないのが不思議!」くらいの感覚で言われるのですが、そう言ってくる人たちは生きるのが上手なのかもしれません。でもネイティブ強者は生きる力の英才教育を受けた人たちです。同じスタート地点に辿り着けない人のことが見えていないですし、要領よく生きられないことも自己責任論でジャッジされてしまうと、分断が深まる一方だと思います。

——経済力の格差によって、そもそも同じスタート地点に立つことが難しいのですね。

お金があるから選択できることって多いですよね。2拠点生活や、習い事や資格取得、大学での学び直し、将来のための投資……お金がなければ挑戦すらできないことだと思います。でもそれらを行っている人たちの多くは、自分の意思や努力で獲得できるものだと思っていて、ベースにお金が必要なことが見落とされています。だから経済的な弱者は「できない」のではなく「やらない人」だと見られているのでは。

——「自己責任社会はおかしい」と気づいたのはいつ、どういうことがきっかけだったのでしょうか。

2020年5月に『私が"普通"と違った50のこと〜貧困とは、選択肢が持てないということ〜』というnoteを書いたのですが、そのきっかけとなった新型コロナ流行初期の頃に自己責任論へ強い疑問を抱くようになりました。

コロナの流行に伴い、派遣社員など非正規の人が「雇用の調整弁」として切り落とされました。特に影響の大きかった飲食業や観光業などの人に「そんな職業を選ばなければよかった」「非正規についているのが悪い」など自己責任論をぶつけている声が多々見られたのですが、それらの発言をしているのが、感染リスクの低いリモートワークができるコロナの影響の少ない職種の人であることも珍しくなく、社会の分断が見えました。

自分の選択以前に社会構造の問題があります。コロナ禍で職を失って生活が困窮したり、廃業に追い込まれたり、自殺した人もたくさんいますよね。個人の選択の範疇を超えた話であって、自己責任論をぶつけられることに強い違和感を覚えました。

選択肢
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「自分は苦労したけれども乗り越えた」と弱者を切り捨てる生存バイアス

——なぜ自己責任論をぶつけてしまうと思いますか。

二つあって、一つは今まで話してきたとおり貧困の実態を知らないので、自分の物差しで判断してしまうのだと思います。

もう一つ生存バイアスです。「自分が努力して這い上がってきたのだから、貧しくてもこれくらいできるはず」と考えてしまいます。本書の感想でも「苦しさを乗り越えた経験をベースに選民意識をこじらせてしまったことがある」という声をいただいたことがあります。

乗り越えた人の努力を否定しているわけではありませんが、元々得意なことだったとか、周囲が協力的だったとか、何かしら偶然や運の要素もあるはずです。

——苦しさを経験したことによって想像力を持てるか、弱者を努力が足りない人と切り捨てるか。その分岐点となる要因はどんなことだと思いますか。

難しいですね……。でも紙一重だとは思います。

あるとき「ヒオカさんは貧困界のエリートだね」って言われたことがあって、当時、シェアハウスで生活していたので「こんなにボロボロなのに?」とピンとこなかったんです。でも、大卒であることや、自分の経験を武器に言論の場に立っていることは貧困層の中で見れば強者性を持っていて。私も自分の強者性を自覚できていなかったことはありました。

それに今でも周囲の人の経済的に余裕のある状況を羨ましいと思うことはありますし、「恵まれている/実家が太い」と相手をラベリングして見てしまうこともあります。

でも経済的には豊かだった高校時代の同級生が、つらそうだった様子が印象に残っていて。親が決めた学部以外に行くならば学費を出さないとか、将来の職業を決められているとか。親が厳しいがゆえにきょうだいが荒れていると話す友人もいました。

うちは親が放任主義というか、お金は一銭も出さないけれども、大学に行くも行かないも自由だったので、経済的には過酷でしたが、友人たちの「親が敷いたレールからはみ出すことを許されない」という苦しみは自分にはないものでした。

もちろん、お金があるうえに親が子どもの意思を尊重する家庭も、お金がないのに加え親の縛りが強い家庭もあるでしょう。経済力を軸に見たとき、強者にも弱者にもグラデーションがあるけれども、まったく痛みのない人はいないと思うんです。

社会構造上、経済的に裕福であれば選択肢が多いのは事実なので、その点には気づいてほしいですが、「経済的裕福=人生イージーモード」ではなくて……当時から「人には人の地獄がある」「他人を表層だけ見て決めつけない」と心に留めています。

誰でも強者の面も弱者の面も持っている

——ヒオカさんは「ネイティブ強者」という言葉で、実家が太い人の声が社会に反映されやすい現象を指摘しています。ネイティブ強者以外の声が反映されるためには、どのような変化が必要だと思いますか。

経済力が選択肢の多さに結びつく状況では、親のアドバンテージもディスアドバンテージも子どもに受け継がれやすいですよね。その構造を変えるためには、生まれた家関係なく、選択肢があるような……たとえば教育格差をなくして、生きたい人が大学進学できるような環境整備が必要だと思います。

でも社会構造を変えるのには時間がかかるので、もう少し身近な話をしますと、メディアに対して思うことがあります。たとえば、格差の話をする際に、実家が太い人や困難を乗り越えたうえで生存バイアスが強い人を選びがちだと感じます。

そういう人の方がメディア映えするのかもしれないですが、バックグラウンドの多様性を意識してほしいですし、弱者が弱者のまま声をあげられる社会にしていく意識がなければ、ずっと弱者の存在が見えないままになってしまうと思います。

——自分の特権性に気づくためにはどうすればいいでしょうか。

強者性って絶対的なものでなくて、たとえば外国へ行けばマイノリティになりますし、経済的な強者も病気になればその点では弱者になります。

反対に相対的に見たら弱者の面が多い人でも、強者性の面を持っています。私は経済的には弱者であったものの、親からレールを敷かれなかった点では恵まれていたと思いますし、車椅子ユーザーではないので自由に移動ができる点でも強者です。自分の中の強者性と弱者性を切り分けて見つめ直すと、自分が持っている特権が見えてくるのではないでしょうか。

——自己責任論や分断が強い今の社会で、「優しい社会」に変えていくために一人ひとりにどんなことができると思いますか。

利他性が必要だと思います。たくさん寄付するとか、毎週ボランティアに参加するとか、そういった大きなことをしなくてもいいのですが、「隣人を気にかける」という意識が広がったらいいなと。

私自身がシェアハウスに安心して住めないときに泊めてくれる人がいたり、欲しいものリストから家電や日用品をサポートしてくれる人がいたり、誰かの利他性や優しさに助けられました。それが私にとっては金銭面でも精神的にも支えになって……だから利他的でありたいと思っています。とはいえ、奨学金の返済や実家への仕送りがあって常にカツカツなので、実行できないこともあるんですけどね。

利他的な行動や他人に優しくすることはエネルギーのいることなので、意識を持っておくことが大事だと思っていて。意識を持っておくことで、できるときに行動に移せると思うんです。自分が優しくされてきたからこそ、その優しさを誰かに還元することを忘れたくないです。

『死にそうだけど生きてます』(CCCメディアハウス)
『死にそうだけど生きてます』(CCCメディアハウス)

【プロフィール】

ヒオカさん
ヒオカさん(ご本人よりご提供)

ヒオカ
95年生まれ。ライター。【連載】 婦人公論「貧しても鈍さない 貧しても利する」、 講談社ミモレ「足元はいつもぬかるんでる」。デビュー作『死にそうだけど生きてます』(CCCメディアハウス)
Twitter:@kusuboku35

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雪代すみれ

雪代すみれ

フリーライター。企画・取材・執筆をしています。関心のあるジャンルは、ジェンダー/フェミニズム/女性のキャリアなど。趣味はヘルシオホットクックでの自炊。



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