「自分に花を買う」それは自分に愛情をかける練習なのかもしれない。

 「自分に花を買う」それは自分に愛情をかける練習なのかもしれない。
unsplash
Gena
Gena
2022-10-20

痛みも苦しみも怒りも…言葉にならないような記憶や感情を、繊細かつ丁寧に綴る。抜毛症のボディポジティブモデルとして活動するGenaさんによるコラム連載。

広告

自分にお金を使うのがとても上手な人、というのを時々見かける。

欲しいものは迷わず買う。いらないものははっきりいらないと言う。

買ってはみたものの、お気に入りじゃないとわかれば惜しげもなく人に譲ったり、メルカリでリリースする。

だからもう使わないけど捨てるのがもったいない物をたくさん抱え込むようなことにはならず、いつもお気に入りのものに囲まれて、落ち着いている。

私は自分の生活に心から満足しています……って感じに見える。

一方の私はといえば、「あのブラウスがほしいけれどちょっと高いし、似合うかわからないし、いつまで着れるかわからないし……」みたいな悩みを四六時中抱え、「この毛玉だらけのセーターはあと一回着たら捨てよう」みたいなことを年中繰り返しているタイプ。

仮に前者を親友のCとして、後者をGとする。

私たちは一体どこが違うんだろう?

見た目や考え方もしかりだけど、きっと一番違うのは「心のかたち」。 

Cは、自分にはなにがふさわしいかをこれまでの経験を通じて知っている。自分で自分を定義する能力があり、なりたい自分にごく自然と手をのばすことができる人。「私はこういうものが似合う、もしくは似合いそう。使いこなせると思う。」そんなふうに、自分のことをよく理解していて、なりたい自分への投資を惜しまない人たち。

一方のGは、なにかを欲しいと思ってもまずは「値段がちょっと高い」とか「本当に似合うかわからない、リスクがある」「もっと手頃な値段でじゃぶじゃぶ洗える下位互換的な服があるかも」とか、そんなことばっかりが頭をよぎってしまう。

昔から、自分の外見にかけるコストとなると「お金がない」と思ってきたけど、それは事実だったんだろうか。

振り返ると、抜毛症が長期化したころから、どうしても自分の外見を磨くこと、ファッション、メイク、ダイエットなどに健全な関心を持てなくなった。

本当は興味は人一倍あったのだけど、自分と結びつけて実際にやってみようとは思えなくなった。

ダイエットをはじめかけては「でも私は髪を抜いているしな」「痩せたところでなにが変わるんだろう」って、そんな声を自分にかけて諦めていた。 

心のどこかで自分のことをネグレクトしていたのだと思う。虫歯もすごかった。歯医者でいったいいくら使ったのかわからないぐらい。

本当は貧しかったのは財布の中身ではなく、自分に向けてあげる愛の量だったのではないか。

そのときの自分が許せる精一杯の範囲で身繕いしていたつもりだった。その場しのぎのハリボテだったとしても。

大人になってきちんと自分の外見と付き合えるようになった今だから言えることだけど、当時は本当にみっともない格好をしていたと思う。 

友人作りや就活や恋愛において、外見の比重は大きい。

そこに力を入れたくても入れられなかった葛藤、その外見でジャッジされた惨めさは今でも少しだけ自分の中に残っている。

 

ところで最近80~90年代のJ-popを聞いているんだけど、脈略もなく「輝く草原を〜」みたいな歌詞がでてきてびっくりする。「一体どこから出てきたの!?」って。

同時に、のびのびとした想像の広がりに清々しい気持ちになる。

30〜40年前の若者はもっと自由だったのかもしれない。

草原に住んでいたら、自分がみっともない格好をしているなんて教えられる機会も少ないだろう。

もしくはいつでも想像力で草原に行けるのなら、他者からの評価なんて歯牙にもかけないのかもしれない。

でも私が住んでいたのは、小さな列島の、人が密集している首都圏。どこへ行くにも人の目があり、片足をSNSに突っ込むような生活をしていたら自分の目からも逃れられない。 

望もうが望ままいが、自分の姿を写す鏡やガラスはそこら中にあるし、もっと美しく、もっと若く、もっと色白に、もっと高見え……みたいなメッセージはそれよりもさらに多い。

そんな社会の中で、ありのままの着飾らない自分で常にいることは、もしかしたら丸腰すぎやしないだろうか。

散々痛い目にあってようやくそんなことに気がついた。 

「ありのまま」って、家の中ならいい。でも必要なときには武装したいのだ。

自分で選んだ美しい甲冑に身を包みたい。 

ボディポジティブの活動を始めたころから特にそう思うようになり、どうやったら「チームC」のように自分の外見に愛を向けてあげられるのだろうと考え始めた。 

メイクの技術を磨いたり、理想の洋服を探したり、そのためにインスタに張り付いたりして、試行錯誤する中で一番難しいと今でも思っているのは「自分にお金をかけてあげること」だった。

こういう服が好きだな、着てみたいなと思っても、実際に買おうとすると躊躇いが出てくる。

いつ着るの?似たようなもの、もってない?これは浪費じゃない?

必需品以外の自分の装飾品を買うことに、妙な罪悪感が鎌首をもたげ、どこまでが自己投資でどこからが浪費なのかがわからなくなってくる。

私は変わりたいのに。自分を大事にできる自分になりたいのに。

どうやら自分にお金をかける練習が必要なようだった。 

私がこの手の葛藤を覚えるのは、服やコスメだけではない。

偶然通りかかった花屋に並んだ鮮やかなダリアを見かけたとき、柔らかなトルコキキョウを見かけたとき、部屋に飾りたいなと思う。

値札をちらりと見てから悩むことになる。

花なんて必需品ではないし、やがては朽ちてしまう。花より団子、今夜のおかずを優先したくなる。

真っ先に節約対象になってしまうような贅沢品。でも思い切って買ってみて食卓に飾ると、目が楽しい。水切りのお世話をする手間も含めて、いつもの生活が豊かになった感じがする。

ここで読書をする時間を作ろうと思ったり、今日のメイクには花と同じ色を使ってみようかなと思いついたり。 

私はそこで贅沢の本当の意味を知る。

私がよく戦っているこの葛藤は、自分の心に素直になる練習。

自分は豊かな生活を送る価値のある人だと知る練習。 

心の余裕をお金で買えるなら安いもの。そう思わない?

「チームG」の練習メンバーはいつでも募集中です!

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Gena(@gena_2046)がシェアした投稿

広告

AUTHOR

Gena

Gena

90年代生まれのボディポジティブモデル。11歳の頃から抜毛症になり、現在まで継続中。SNSを通して自分の体や抜毛症に対する考えを発信するほか、抜毛・脱毛・乏毛症など髪に悩む当事者のためのNPO法人ASPJの理事を務める。現在は、抜毛症に寄り添う「セルフケアシャンプー」の開発に奮闘中。



RELATED関連記事

Galleryこの記事の画像/動画一覧

「自分に花を買う」それは自分に愛情をかける練習なのかもしれない。