「人間関係の波風に溺れない自分でいる」ということ|「嫌われることが怖い」あなたに伝えたい言葉
痛みも苦しみも怒りも…言葉にならないような記憶や感情を、繊細かつ丁寧に綴る。それはまるで、音楽のような言葉たち。抜毛症のボディポジティブモデルとして活動するGenaさんによるコラム連載。
私は怖がりだと思う。
子供の頃からたくさんのことを恐れてきた。
地震、おばけ、戦争、暗くて天井が低い場所、知らない男の人、お母さんが死ぬこと。
今でもおばけが怖い。内緒だけど夜中の風呂場の鏡はあまり見ないようにしてるし。
大人になったら怖いものは少なくなるのだとぼんやりと思っていたけれど、どっこい増えている気がする。
全ての髪の毛を、二度と生えてこなくなるまで抜いてしまうこと。
後ろから走って近づいてくる足音。 電車の中でのフェミサイド。
永遠。 最期のおわかれを言えないこと。
こんな感じで怖がりな私による怖いものリストは尽きることなく続くんだけど、実はこの中には「人に嫌われること」というのは含まれていない。
積極的に嫌われたいとか敵を作っていきたいと意気込んでいるわけじゃない。
本音をいえば、どちらかといえば人からは好かれたい。そりゃあね。
私はよくない意味でも繊細な人間で、自分と世の中のズレや人のちょっとした不味い反応を、しっかり自分のストレスとして受け取ってしまうタイプ。
私のこういう気質と抜毛症はとても相性がいい。
「人に嫌われることは怖くない」というのは、こういう自分がこれ以上人間関係でストレスを抱えないために、後天的に学習したことなんだと思う。
こんな私だって、仲がよかったはずの友人からのLINEが急にそっけなくなったとき。「あれ?怒っているのかな」と闇雲に焦る。
デートしてた相手にブロックされたとき。ショックだし、同時になにかひどく失礼なことをしてしまったのかと我が身を振り返る。
朝出社したら同僚がよそよそしく感じられ、飲みかけのコーヒーの味がわからなくなる。
こういう日常の人間関係におけるヒヤリとする瞬間は避けられないものだと思う。
小中高のときはこういうヒヤリ感は、人間関係の黄色信号で要注意すべきものだった。
左右を用心深く見ないと、ある日突然クラス中のシカト対象になるなんて想像もしたくないシチュエーションだよね。
教室のように閉ざされた人間関係の中ならまだしも、大人になった今でも昔と同じようにヒヤリとし、無駄にドキドキしてしまうのは、きっと私たちの心がまだどこか教室に残っているから。
子供ではないということは、家と教室以外にも自分の意思で居場所を見つけたり、移動したりできるということで、たった一人に嫌われるだけで自分の生活の全てが崩れる可能性をぐっと減らせるということでもある。
大人になってよかったことの数少ないメリットだね。
30歳までの過程で私が身につけて来た対処法。
それは嫌われたかなと感じたとき、「相手側になにか問題がある可能性を考慮して、一旦置いとく」ということ。
ヒヤリとした瞬間、少し焦る。なにか気に障ることをしてしまったかと、子供の頃のようにそんな考えが頭の中を高速で駆け巡るようなことはないけれど、それでもそういったネガティブな思考は走り出そうとする。
それを大人のわたしは冷静に止めてあげるの。
私、本当に悪いことをした?考えすぎじゃない?って。
それは相手の事情かもよ。
返事がそっけなくなった友人は猛烈に忙しい時期を過ごしているのかもしれないし、ブロックされたデートの相手はプライドが高すぎてデート中にずっと鼻毛が出ていたことに後から気がついて恥ずか死んでるのかもしれないし、よそよそしい同僚はお腹が痛かっただけかもしれない。
だから私は「向こうの都合が悪いのかな〜」とだけ思って、とりあえず待つ。
よけいな勘ぐり、反省、探りを入れたりとかはしなくていい。
堂々としてたらそのうち自然と解決することは多い。
友人からは「ごめんね、バタバタしてて!」って返事が来る。同僚の態度は気がついたら普通に戻っている。
デートの相手は本命にばれたらしいと風のうわさを耳にする。
本当にしっかりばっちり、嫌われてることもある。
人間だもん、誰しも好き嫌いはある。
嫌われていると気づいたときに傷つくのは、それはこちらのほうは相手を好きだったから。
30年生きてきてようやく気がついたことがある。
それは人間関係において、互いに向け合う感情の非対称性について。
友情の片思いというのは存在するし、親子間での愛情の種類は違う。
愛し合っている者同士が互いに向け合う愛情の大きさも違う。
自分がその人を好いたから、もしくは好かれたいからといって、相手が自動的に好いてくれるわけではない。
好いてくれたとしても、相手が同じだけの感情を持ってくれることはない。
非対称な感情の上に私たちは人間関係を築き、生活していく。
器用なもんだなと思う。
相手が同じだけのものを返してくれないと不安になる。悲しくなる。傷つく。
でも逆の立場になったとき、まったく同じものを返すのは義理であっても難しいことを思い出す。
好かれているときはまだいい。
嫌われているかもと感じたときに私たちができるのは、
【私は自分のことを信頼している。むやみに人を傷つけるような行動はしていない】
そう思って、堂々としているしかない。
数々の傷を経て、私は自分のことを信頼しようと思えるようになった。
相手が自分のことをどう捉えるのかは相手の内側で起こる問題で、それに対して自分はどうすることもできない。
投げたボールを相手が地面に置こうが、別の方角に投げようが、それはその人の自由。
キャッチボールが始まることを無意識に期待しているから、傷ついた気持ちになる。
相手が自分のことを好きだ・嫌いと思うのは、その相手の自由で、私にはあまり関係がないことだ。
センシティブなことをようやくカミングアウトした際、相手の反応があまりにも微妙でも、それもその人の自由。
少しは気になるものの、私はその気がかりさを自分の生活には持ち込まないようにしている。
日本で暮らしている人は、自分のことも含めてやはり生真面目な人が多いような気がする。
「これだけのものを貰ったんだから、同等のものをお返ししないと」は「これだけのものをあげたんだから、最低でもこれぐらいは貰わないと」と同じこと。
人間関係、とりわけ感情面においてはこんな風に帳尻を合わせないほうが、精神衛生上とてもよい。
他人軸によって自分の感情を上下させてたら、大事な自分をすり減らしちゃう。
自分と相手の問題を切り分けて、自分の行動を信頼して、のんびり、堂々と構えていきましょ!
AUTHOR
Gena
90年代生まれのボディポジティブモデル。11歳の頃から抜毛症になり、現在まで継続中。SNSを通して自分の体や抜毛症に対する考えを発信するほか、抜毛・脱毛・乏毛症など髪に悩む当事者のためのNPO法人ASPJの理事を務める。現在は、抜毛症に寄り添う「セルフケアシャンプー」の開発に奮闘中。
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