可愛いシミ、大切なシワ、思い出の傷跡。私たちはそれらを体に刻んで生きていく【連載#私が祈る場所】
痛みも苦しみも怒りも…言葉にならないような記憶や感情を、繊細かつ丁寧に綴る。それはまるで、音楽のような言葉たち。抜毛症のボディポジティブモデルとして活動するGenaさんによるコラム連載。
子供だったころ、私は自分の左手に絶対の自信があった。
一体どんな自信を持っていたのかというと、例えばこの手が(死なないやり方で)自分から切り離されたとして、目の前にそれはたくさんの左手が浮かんでいたとして、果たして自分はその沢山の似たような選択肢の中から、本来の自分の左手を探し当てることができるのか。
当たれば元の自分に戻ることができ、外せばもう二度とこれまでの自分には会えない。そんな重大な予感がしたので、これは真剣勝負だった。
でも私は絶対に当てられる自信があった。当てて、無事にもとの自分に戻るのだ。ああ、よかった!
寝付きの悪い子供だったので、時々布団の中でそんな想像をしては安心感を得ていた。
ところで、なぜそんなに自信があったのかというと、それは単に私の左手には目印があったから。
親指の先に、サインペンが擦れたような形のホクロがあったからだ。
それは物心ついたときにはすでに薄く存在していたように思う。
小学校に上がるとそのホクロは頼れる相棒になった。
ホクロがあるほうが「左」、ないほうが「右」。
頭の中だけではどうしても覚えられず、いつも手を確認していた気がする。
ホクロがないみんなはどうやって左右を認識していたんだろうね。
妹は家の玄関に立つ想像をして、「左はスズキさんのおたく、右はサトウさんのおたく」というふうに思い出そうとしていたらしい。それがうまく機能していたかどうか彼女に聞いてみたことはないけれど、傍目には苦戦していそうだった。
大人になってからの私は、子どものときよりもっと曖昧な認識の世界で生きている。
ふと自分がどこにいるのか、なにをしているのか、わけが分からなくなりそうな気がすることがあって、そういう時は左手を見たくなる。
自分が自分であることを確認するために。
そして大人の私は、もう左手で自分を安心させてあげることができない。
ホクロは20歳ぐらいのときに除去してしまった。
ある日を堺に妙に存在が気になるようになって、こころなしか輪郭がギザギザになっているように見え、病院にいったところよく擦れる場所にあるホクロはいつか悪性になる可能性があるので取り除こうということになったからだ。
ホクロは切り取られ、傷口は糸で縫われた。そして抜糸され、盛り上がった皮膚になり、それがしばらくかけてなだらかになると、あっさりと、私の印はなかったことになった。
失った印とは別に、大事に持っている印もある。
1つ目は左目の周りに散らばる茶色いシミの群れと痣のような青が見えるまぶた。
これは小学校3年生ぐらいのときに初めて認識した気がする。
ふうん。と思って眺めていた。
ある日、学年で人気者の男の子の目の周りにも同じ茶色のシミ群があることに気がついて、お?と思った。君も仲間だったのか!
ちょっとだけ嬉しくて、このシミが悪いものじゃなくて、ちょっとだけ特別なものに思えた。
あの子のことはすっかり忘れても、小学生のときにシミに感じたちょっぴり特別な感じは私の心に定着していたんだと思う。
それにまぶたの痣とセットで孔雀のようにも見えるな、と想像していたから。
大人になってから別件で皮膚科にいったとき、「目のこのシミと青痣を消しますか?」とお医者から言われて驚いた。
消える?消せる?なぜ消すの?
お医者いわく、私の左まぶたにかけて広がるシミ群も、青みも全部セットで一つの「太田母斑」というものらしい。
初めて名前を聞いたし、それが一つのものだという事実にもびっくりしたし、消せる・消すべきものだということにも違和感があった。
これは消さないの、と間髪入れずに思った。
これを消したら、消したら、消したら……
もう一つ、私の印のことを教えてあげるね。
それは右の目尻に残る爪をぎゅっと押し付けたような深い傷の跡。
父は私が生まれる前からコンピューターを使いこなしていた。
私は92年生まれなので、父はかなりのアーリーアダプターということになる。
話を聞いていると初期のコンピューターの使いにくさはめまいがしそうなほどだった。マウスもなくキーボードだけ。手でやったほうがよっぽど早く処理できそうだけど、父はやはりパソコンを使いたかったらしい。
彼の忍耐強く、試行錯誤をしながらコツコツ続ける姿勢は素晴らしい。娘に遺伝しなかったのは非常に残念なことだ。
当然家にもパソコンがあり、パソコンデスクがあった。
つかまり立ちを始めた私は、父に近寄ろうとしてデスクの角に顔をぶつけたらしい。目にぶつけなくて良かったと両親はこのときのことを思い出しては言った。
この傷を作ったときのことはもちろん記憶にないんだけど、その後の数々の傷を作ったときのことなら覚えてる。
父はまず思い切り「あ!!」って顔をして、「おいおいおい」って言いながら足早に近づいて、「大丈夫か?」って言う。
しばらくして大事じゃないってことがわかるとちょっと怒ったような声になって「ったくもー、あんたは。気をつけろよ!」になる。
何十回と続いてきた父による傷確認の、(おそらく)記念すべき第一回が、30近くになった私の目尻に残っている。
そして多分、これは父が亡くなっても、私がおばあちゃんになっても消えてしまうことはないだろう。私の身体に刻まれた思い出は、死ぬまで私といてくれる。
シミ、シワ、傷跡、ホクロ……肌に残るものはみんな、これまでの生の記録。
「すべてを消して陶器肌を目指す」なんてミニマリストみたいな考え方だけど、憧れの肌ミニマリストになったあとの自分は一体なにものなのか。
年齢を重ねたとき、自分の世界が揺らいだとき、自信を持って自分のことを認識できる?
認知症になったとき、私が最後まで認識できるのは、慣れ親しんだ自分の身体の特徴のひとつなのではないかと思う。
かくいう私は、その記録のすべてを愛しているわけじゃない。
顔全体に残る赤いニキビ跡、クレーターを消したい。
苦しい思春期からの呪いがまだかかっているような気がするから。
整形も手段だと思う。ただ単に「若く」「美しく」「普通に」を追い求めるわけでないのであれば。
人間の顔の印象というのは本当に不思議なもので、左右対称の、シミシワ毛穴一つないお顔は、逆に年齢を上に見せることもある。
「不気味の谷」と言われる、人工物の外見を人間の姿に近づけるほど違和感や嫌悪感を覚える現象もある。
海外ではメイクであえてホクロをアイライナーとかで描く人もいるし。
左右の覚え方に工夫を凝らしていた妹にも、彼女のマークがある。
生まれたときから上腕にサラミのような色と形の痣があった。
彼女はなにかというとその痣をTシャツの袖から出してきて、「これは、わたしの うまれつきなの」と言っていた。
その言い方がたどたどしく聞こえて、妹が「生まれつき」の意味を正しく理解しているのか怪しいなとその時分は思っていた。
今ならそのセリフを口にするときの彼女が、自慢げで、特別な言い方をしていたのだとわかる。
妹の結婚式で、ハート型に空いた胸元、そのとなりにある腕にあの痣が変わらずあって、それが目に入った瞬間、どういうわけか私は涙が止まらなくなった。
その痣をみたのは数年ぶりだった。
紛れもなく、ここにいるのは妹だと私の身体が覚えていたみたいだった。
私たちは、シミ、シワ、傷跡、ホクロ、いろんなものを肌に刻んで生きてる。
それで自分を、他者を認識して、それにまつわる出来事を記憶する。
自分の大事なマークをしっかり覚えておこうと思う。
いつでも、どんなときでも、自分に戻ってこれるように。
AUTHOR
Gena
90年代生まれのボディポジティブモデル。11歳の頃から抜毛症になり、現在まで継続中。SNSを通して自分の体や抜毛症に対する考えを発信するほか、抜毛・脱毛・乏毛症など髪に悩む当事者のためのNPO法人ASPJの理事を務める。現在は、抜毛症に寄り添う「セルフケアシャンプー」の開発に奮闘中。
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