ポリコレは「お笑い」を殺したのか|そもそもなぜ人は笑うのか。何を笑うのか
ポリコレは笑いを制限したのではない。笑える対象を変えただけ
そう考えると、お笑いはそもそも差別や侮蔑、見下しと結びつきやすい表現だということは確かだろう。問題は、誰を見下し、周縁化するのか、という点だ。
コメディアンで俳優のボー・バーナムは、Netflixのコメディ番組『ボー・バーナムのみんなハッピー』にて、「異性愛者で白人男性である自分が持っている特権に無自覚な男」を演じ、笑いに変えた。
これは、政治的、社会的に正しい発言(ポリコレ)が求められる時代にあっても、誰かを見下したり周縁化したりすることは許容されうることを示したわかりやすい例だ。その誰かとは、すでに特権を持っており、社会の主流にいる人々だ。主流にいて、特権的だからこそ、現実社会では彼らを標的にすることが難しい。ボー・バーナムは、現実には難しいからこそ、お笑いの文脈で自分を含む特権集団をこき下ろし、観客の溜飲を下げることに成功している。
ポリコレは、すでに差別されているものを虐める笑いにNOを突きつけるが、権力者の欺瞞や特権をあざ笑うことは許容しているのだ。
ポリコレによって制限されるのは「すでに差別されている人を侮蔑する」「弱者を叩く」笑いだけだ。それにも関わらず、「ポリコレのせいで、笑いを作るのが難しくなった」という人は、「自分は特権を持つ側をディスりたくない」「これまでどおり、弱者を笑い者にしたい」と告白しているようなものだと言えるだろう。
もしくは単に、自分たちが既に特権側にいるため「自分たちが笑われるようなお笑いは不快だ」と無意識に感じているのかもしれない。
または、自分自身は弱者だけれど、強者と自分を同一視していないと不安なため、「ポリコレなんてくそくらえ」と、「弱者をたたくことを恐れない」姿勢を示し、自分は弱者ではないと再確認したいだけなのかもしれない。
いずれにしても、彼らが「やりにくくなった」とぼやいているうちに、新しい笑いの表現は次々と発見されていくだろう。ポリコレが浸透しても、笑いは死なない。何が笑えるのかという暗黙の合意が変わっていくだけだ。
※1…『差別はたいてい悪意のない人がする』キム・ジヘ著 尹怡景訳訳(大月書店)
※2…『笑い』アンリ・ベルクソン著 林達夫訳(岩波書店)
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