師弟関係とは何か|ヨガの先生と賢く付き合うための11の実践的なアドバイス
9.疑問があれば直観に従おう
教えやプラクティスが正しいのかを疑問に思うときは必ずやってくる。そういうときには、疑う気持ちをそのままにせず、自分に問いかけてみよう。この心地悪さはどこからきているの? これは、退屈したり不安を感じたりすると、すぐにやめてしまう自分のパターンの一つ?教えの中に何か心地よく感じられない部分があるの? もっとプラクティスを進めていくことを求められているの? それともこのままの状態を保っていけばいいの? 早く先に進みすぎたことを不安に思っているの? それとも逆に、もっと高度な教えを待ちわびているの? 自分が向き合わなくてはいけない、特定の感情のスイッチが入ったの?本当の意味で教えを受ける場面では、嫉妬や憤り、批判といった、自分自身が抱えている問題と対峙するものだ。競争心を感じることもあれば、自分を批判したり、無視したりする先生に対して憤りを感じることもあるだろう。先生の説明の仕方が気に入らなかったり、「この話は前聞いたから、何か別のことを話してくれないかしら?」と思ったりすることもある。別の先生に習っている友人が、自分よりずっと上達しているように感じられることさえある。いったん先生についたら、一定の期間はそこで学ぼうとする決意が重要な理由の一つは、必然的にやってくる不安や倦怠、混乱を感じたときにそこに留まるためだ。プラクティスをする間は、ずっとマットの上にいなくてはいけないように、先生や教えにも、完全に浸透し、私たちを「調理」する機会が必要なのだ。
10.教えを吸収しよう
学びたいという心からの気持ちに加えて、今学んでいることを自分でも教えたいという気持ちを感じるときもあるだろう。インドのヨガ界の伝統では、自分の中で消化する前に教えを伝えようとする人々は「杓子」と呼ばれるのだという。実際に味わわず、スープをただよそうだけの杓子のように、完全に理解する前に何かを教えようとすると、しばしば、その智慧が自分の中に浸透する機会を自ら奪い取ることになる。そのために、伝統的流派では、生徒があまり早い時期に教え始めることをよしとしないのだ。自分の得た智慧をほかの人に伝えることが、より深く学ぶことに繋がるというのは事実だ。だが、ほかの先生に教えてもらった知識を本当には理解しないまま他者に教えるために使うのは、自分自身で学ぶプロセスを省いてしまうことになる。その上これは、不完全な知識を受け取る生徒にとってもフェアではない。
これは、世間一般の通念の一つと同じように、ヨガの教えの一片を、真実味のある感情は何一つなく、ただ繰り返しているようなとき耳にするものだ。「ありのままの自分がすでに完全である」という偉大なる真実でさえ、自らの内で実際に感じるのではなく、ただ頭で考えて言うだけでは陳腐な表現になる。同様にヨガの怪我の多くも、先生が指導やアジャストを一人一人に応用する知識がなかった結果起こるものでもある。
11.優雅に離れていこう
すべての師弟関係がずっと続くわけではない。先生から学べることはもうすべて学んだと感じるときがくるかもしれないし、先生に失望したり、そのコミュニティでは成長できなかったりすることもある。時おり、先生が別のところで学ぶようにと勧める場合さえある。先生との関係に終止符を打つことは、永久に続くことはないことを学ぶレッスンでもあり、それは成長するための一つの段階かもしれない。そして、たとえ先生との別離が苦しく困難だったとしても、自分が先生から受け取ったことや学んだことを尊重する気持ちが大切だ。先生から何を学んだのか、後々まで分からないこともよくある。だが、本当の生徒とは、ものの真価をよく理解する存在だ。そして、学びのプロセスにおけるあらゆる段階がすべて有益であることを知っている。始まりも終わりも、うまくいったこともつまずいたことも、そしてその間にあったことも。
ライター/サリー・ケンプトン
世界各国で知られる瞑想やヨガ哲学の指導者であり、『Meditation for the Love of It 』の著者。
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