私たちはもしかしたら圧倒的に"怒る"経験が足りてないんじゃないか|チョーヒカルの#とびきり自分論

 私たちはもしかしたら圧倒的に"怒る"経験が足りてないんじゃないか|チョーヒカルの#とびきり自分論
Cho Hikaru/yoga journal online
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でもこちとらしっかりメールの履歴が残っているのだ。何回読んだって「ブルックリン」と書いてある。明らかにこちらが正しい、それなのに、怒っている電話の向こうににビビって「なんかもう諦めて他のタクシー呼ぼうかな…そっちの方が大人な対応かしら…」としょげている自分がいる。

ふと振り向くと友人3人が不安そうな顔をしている。多分今このしょげしょげ和解案を提案をすればみんな同意してくれるだろう。お金は損することになるし、こちらに一切非はないけれど、そもそも右も左も分からない海外で不安が多いのだ。皆「仕方ない。そうしよう」と言ってくれるだろう。でも、本当にそれでいいんだっけ。こうやって足元を見られた旅行客ってどのくらいいるんだろう。

「いや、ブルックリンって書いてありますけど!?」

思い切って怒った声を発した。

「いや書いてな…」

「100%書いてます!メールにも残っています!もし読んでいないなら確実にそちら側のミスです!!!!」

「は!?俺にいちゃもんつけてんのか?」

「なんと言われようとこれは確実にそちら側のミスです。証拠も残っています。今すぐこちらに車を向かわせるか、新しい車をよこしてください。外国人だと思って舐めているのかもしれませんが、こちらはもうお金も払っています。こんなことは許されません」

しっかりと怒った声で、しかし冷静に伝える。

「……」

しばらくの沈黙の後、また違う人が電話口に出てきた。そしてなんとその人は驚くべき腰の低さで私に謝りたおし、私たちの元には早急に別のタクシーが送られたのだった。

不自然なほどにサービスの丁寧な新しい運転手(明らかに上司から「丁重に扱え」的な指示を受けている感じがした)の車に揺られながら考える。もし怒っていなかったら。もし戦っていなかったら。私たちが争いを避けるために理不尽を飲み込んでいたら、一体何が好転していたというのだろう。時々人は怒らなきゃいけないのだ、としみじみと思った。自分や何かを守るために怒ることは、決して悪いことではない。初めてしっかりと拳にはめたグローブが誇らしく思えた。

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