涙は武器ではない、と同時に、弱さでもないという話|チョーヒカルの#とびきり自分論

 涙は武器ではない、と同時に、弱さでもないという話|チョーヒカルの#とびきり自分論
Cho Hikaru/yoga journal online

誰かが決めた女性らしさとか、女の幸せとか、価値とか常識とか正解とか…そんな手垢にまみれたものより、もっともっと大事にすべきものはたくさんあるはず。人間の身体をキャンバスに描くリアルなペイントなどで知られる若手作家チョーヒカル(趙燁)さんが綴る、自分らしく生きていくための言葉。

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涙はただの「目から出る水」である

目からチョロチョロ流れる水分を「女の武器」などと名付けたのは誰だろうか。なんと頼りない武器だ。水て。水圧もない。量もない。到底何にも抗えないものが私たち女の名の知れた「武器」だなんて。そりゃ確かに生物学的に男の方が体は大きいかもしれない。筋肉もあるかもしれない、力も強いのかもしれない。それなら尚更こっちはもっとなんか、銃とか毒とか、殺傷能力の高いものを武器にさせてもらうべきではないだろうか。実際にはいつでも力でねじ伏せられるということを理解しながら「あ〜俺、泣かれちゃうと弱いんだよね〜〜」という、確実に相手を見下しみくびった上での涙を武器とする言論、気持ち悪くて反吐が出ちゃう。と言うかそもそも、涙にそんな意味なんてない。ただの水なんですよ。

さて、最近涙を流すことがあった。ニューヨークの大学院でだ。高いお金を払って良い大学院に行ったからといって、教授が皆素晴らしい人格である保証はない。実に一人、60代の白人男性の教授でどうしても馬が合わない人がいる。

量の多い白髪をワックスで立ち上げ、「若さを保つため」と毎日ジーンズとスニーカーを貫く彼は、ひたすらにアクセントをバカにするジョークを言うのだ。

学年の半分以上が留学生なので、英語が第二言語な人ばかりだ。そうなると当然、訛りも出てくる。中国訛り、日本訛り、ドイツ訛り、インド訛り(インドでは英語が常用されていたりするので第二言語ではないこともある)。訛りがあってもその人の知性には全く関係がない。そして英語を学んできた人間として、訛りを恥ずかしいと思いなかなか話せないと言う気持ちもよくわかる。しかしこの教授は

「おいおい、読み方が違うぞ!笑 LとRの違いがわからないと選挙(election, erectionと読むと「勃起」になってしまう)の話がまともにできないな〜!」

だとか、アクセントを小馬鹿にしたようなジョークを毎授業3回は挟んでくるのだ。

しかも自信がなく声が小さくなってしまう留学生をわざと一人立たせて、読み上げる必要のない文章を読み上げさせたりするのもザラだ。「自信をつけさせる」と言う名目の元。私が対象じゃないことが多いが、みんな気まずそうに、愛想笑いを浮かべながらやり過ごしている。授業の後にこっそり落ち込んでいる同級生を何度も見た。

耐えられなくなった私は教授を授業外の時間に呼び出し、不満を伝えることにした。あくまでも失礼のないように、気持ちが伝わるように。訛りをバカにするようなことはしないでほしい。慣例の違いで発言の苦手な生徒もいるので、そう言った配慮も少ししてくれないだろうか。しかし返ってきた反応は

「アジアではそういう習慣がないのかもしれないが、折角アメリカに来たのだから、アメリカの習わしに従うべきだ!」

だった。郷に入れば郷に従えとは言ったものだが、人としての思いやりを忘れる必要はないのではないか。別に全く意味がわからないわけではない、ジョークを体験するのも、発言することや大きい声を出すことを恐れないようになることは悪いことではない。しかどうしてもやり方が効率的とは言えないし、人を傷つけていることには自覚的であってほしい。

ノンシャランとしている教授にどうにか第二言語で全てを行う難しさや、それでも頑張っている同級生の気持ちを伝えようとボキャブラリーを最大限にフル活用するが、まだ伝わらない。必死になるうちに気持ちが昂って、悲しいわけでもないのに涙が流れてしまった。

「おいおい、泣くほどかい?」

教授の瞳がきらりとひかる。言葉とは裏腹にまるで喜んでいるかのようだ。

「そんなに思い詰めていたとは思わなかったよ、でもそんな感情を出してくれるほどに、僕に心を開いてくれていたんだね、光栄だよ!」

何を言っているんだこのおじさんは。この瞬間突然「か弱い女」であるスタンプを押された気がした。涙は弱さのアイコンであるらしい。教授の目には「可哀想な弱い女」が映っており、彼はなぜか勝利したような顔で私を慰めようとしていた。こいつはもうどうしようもないなと悟った私はその場を無言で立ち去り、その日の夜に大学院の学科長に長い長いメールを送り、クラスを変えてもらった。

涙は私にとって、ただの生理現象だ。悲しくても出るけれど気持ちが昂っても出る。なんとなくスッキリしたくてわざと泣こうとするときもあるし、なんならあくびをしたら出る。一般的に涙を流す理由として知られているような理由で泣くことの方が総合的には少ない気がする。

「男の涙は弱さである」「女の涙は武器である」そんな誰も得をしない意味づけはやめないか。泣くことしかできない赤ん坊と違って私たちにはもっとたくさん武器がある。人類に共通している生理現象を引き起こしたからといって、気を引こうとしているわけでも、「守られたい」わけでもありません。悲しさが涙に現れることもあるでしょう。でもいつでも敏感であるべきは相手の感情であって、涙ではない。男も女も誰でも、泣きたい時に泣いていいんです。涙は誰かに見せるためのものではなく、自分のためのものであっていいんです。

私の涙に大した意味はありません。なんの武器でもありません。目から出る水程度に必要以上に動揺するのはやめたいものですね。

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AUTHOR

チョーヒカル

チョーヒカル

1993年東京都生まれ。2016年に武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科を卒業。体や物にリアルなペイントをする作品で注目され、衣服やCDジャケットのデザイン、イラストレーション、立体、映像作品なども手がける。アムネスティ・インターナショナルや企業などとのコラボレーション多数。国内外で個展も開催。著書に『SUPER FLASH GIRLS 超閃光ガールズ』『ストレンジ・ファニー・ラブ』『絶滅生物図誌』『じゃない!』がある。



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