「恋愛(感情)」などというものは、存在しないのかもしれない。

 「恋愛(感情)」などというものは、存在しないのかもしれない。
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エコーチェンバー現象や排外主義の台頭により、視野狭窄になりがちな今、広い視野で世界を見るにはーー。フェミニズムやジェンダーについて取材してきた原宿なつきさんが、今気になる本と共に注目するキーワードをピックアップし紐解いていく。

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恋愛、または恋愛感情などというものは、存在しないのかもしれない。そう考え始めたのは、『男たち/女たちの恋愛 近代日本の自己とジェンダー』(著:田中亜以子 勁草書房)を読んだことがきっかけだった。

本書によると、恋愛という言葉は、英語のLoveの翻訳語として明治期に作られて造語であって、恋愛という言葉が定着する以前の時代においては、男女の好意的な感情は色や恋といった言葉で表現されていたという。

明治時代。妻の愛とは、女性が家庭において課さられる役割の別名

明治期に恋愛という言葉が登場した当初、恋愛を論じていたのは、ほぼ男性だった。当時の男性たちは、突如身分制度が廃止されたことで、自分の意志のみによって何者かになることが求められるようになっていった。自分は何者なのだろうか、という自分探しが始動することによって、恋愛感情に結ばれた妻がいる家庭が、本当の自己を発揮できるユートピアとして想定されるようになったのだ。

夫婦愛という概念が作られたのも時を同じくする明治20年代だ。当時は、男は仕事、女は家庭というジェンダー秩序が作られた時代だ。

外で働く男性にとって、家庭とは休息の場所であり、それに対して家庭における責任者になった女性にとっては、家庭こそが労働の場所だった。つまり、自己の解放を許される場としての家庭は、公的領域において仮面を被る男性が、仮面を脱ぎ捨てることができるユートピアとして構築されていったのだ。

注目すべきは、当時、恋愛や自己解放が語られる際、妻の自己解放はほとんど問題にされていなかった、という点だ。端的にいうと、恋愛によって結ばれた妻は、家庭という領域が夫にとって自己解放の場となるよう、ひたすら奉仕することを望まれていた。

妻の愛は、妻自身の自己の実現のためというよりも、まさしく夫のためのものとして語られたのである。すなわち、妻の愛とは、女性が家庭において課さられる役割の別名でもあったのだ……といったことを『男たち/女たちの恋愛 近代日本の自己とジェンダー』は述べていた。

妻が愛情によって無償で家事、育児、介護などの再生産労働を担い、男性には会社や国の労働を全力で行う、という役割分担は、国力強化に勤しむ明治政府にとっては望ましいものだっただろう。

しかし今や、時代は変わり、共働き家庭が専業主婦家庭を上回っている。日本では男女の賃金格差がいまだに大きいとはいえ、経済的に自立している女性や、生涯結婚しない女性(2020年時点で生涯未婚率は女性17.8%、男性28.3%)も増加している。

社会が要請する性別役割も変化している令和の今、恋愛や家族愛の定義も大きく変わっただろうか?

「恋愛」は性別役割を強化させる装置なのか

『恋愛社会学 多様化する親密な関係に接近する』(編:高橋幸・永田夏来 ナカニシヤ出版)では、現代の恋愛の多様性や、時代の流れによる変化が示されている。

恋愛と結婚を分けるのか否か、恋愛はどのくらいマストだと考えられているのか、どのような恋愛があると考えられているのか、ということは明治時代から大きく変化したことが見て取れる。現代は、1980年代の恋愛至上主義から脱却し、恋愛よりも友情や家族関係、仕事が大切だと感じる若者が増えているという。また、恋愛的、性的に人に惹かれることを経験しないアロマンティック・アセクシャルの認知度も広まった。二次元や推しに恋をするガチ恋する人の存在も知れ渡っている。多様な恋愛・性のあり方が、認知されていった、とも言える。

一方、恋愛において、明治からある種、地続きの面もある、と本書では指摘されている。

それは、「恋愛における性別役割」だ。現代の恋愛は同性愛者やアロマンティックの存在が認知されているとはいえ、いまだに異性愛中心主義が蔓延っている。そして、異性愛においては、男性がデートに誘い、女性がデートを受け入れ、男性が奢り、女性が奢られ、男性がプロポーズし、女性がそれを承諾する、といったような、男性が主導権を握り、女性がそれを受け入れたり拒絶したりするという性別役割がいまだに維持されているという。

恋愛や性的関係の文脈においては、男性が主体となることが当然かのように語られることが少なくない。例えば、クラブで男女が出会い、一夜を共にした場合、男女のした行動は全く同じだったかもしれないにも関わらず、「女性がお持ち帰りされた(女性は受動的)」「男性が女性を抱いた(男性は能動的)」と性別役割のフィルターを通して語られがちだ。

高橋によると、現代社会においても、「恋愛や性の場面になった途端、男性能動/女性受動からなる性別役割に即した行動が求められる」という。

明治に「恋愛」という言葉が造語して作られ性別役割が強化され、現在もなお性別役割を強化し続けているとするならば、「恋愛」は、性別役割の強化を魅力的にコーティングするためのイデオロギーに過ぎないのではないか? という疑問も生まれる。

「恋愛という特定の感情がある」という想定を疑うクワロマンテック

「恋愛ってなんだろう」「友情と恋愛の違いって?」「これは性欲? それとも恋愛?」と悩んだことがある人は少なくないだろう。もしかして、そういった悩みが発生するのは、恋愛や、恋愛感情に実態がないからなのかもしれない。

「恋愛感情という特定の感情がある」という想定は、個々人が抱く恋愛感情の多様性を透明化する恐れがある。そこで有用なのがクワロマンティックという概念だ。クワロマンティックとは、「恋愛感情という特定の感情がある」という想定自体を疑問視するアイデンティティだ。

少なくとも恋愛(感情)の意味するところが、個々人によって異なり、時代や文化によって変わっていくことを鑑みれば、「普遍的で正しい恋愛」などというものは存在しないことは明らかだろう。

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AUTHOR

原宿なつき

原宿なつき

関西出身の文化系ライター。「wezzy」にてブックレビュー連載中。



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