親代わりの祖母はアルコール依存。ヤングケアラーだった私が自分を取り戻すまで【経験談】

 『さよなら毒家族 アルコール依存症の祖母の呪縛から解放されて私を取り戻すまで 』より (C)ゆめの/KADOKAWA
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漫画家のゆめのさんは、激しいケンカをする両親のもとに生まれ、落ち着かない日々を過ごしていました。5歳のときに母親が亡くなり、祖父母と一緒に暮らすことになります。おばあちゃん子だったゆめのさんは、祖父母の家で暮らすことを喜びました。ところがおばあさんはアルコールに依存しており、ゆめのさんはヤングケアラーになります。『さよなら毒家族 アルコール依存症の祖母の呪縛から解放されて私を取り戻すまで 』(KADOKAWA)にはゆめのさんの経験談が描かれています。機能不全家族で育ったことから、自分を取り戻すまでのお話をお伺いしました。※本記事にはセンシティブな表現が含まれます。

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隠さなきゃと思ったものの、異常なのかはわからなかった

——どういった経緯で、おばあさんたちと暮らすようになったのでしょうか?

父と母と暮らしていた頃は、家族と暮らしているというよりは、大変な場所にいる印象が強かったです。父は浮気性でギャンブル好きで、母が包丁を振りまわしてケンカしていたことがありました。でも小さい頃なので、他はあまり記憶が残っていなくて、母の顔や声ももうあまり覚えていないんです。

私が5歳のときに母が自死して、祖父母の家で暮らすようになりました。元々おばあちゃん子だったので、たまに祖母の家に預けられることが嬉しくて、父と母がいる家に帰りたくないくらいでした。なので祖父母と暮らせることが本当に嬉しかったんです。それから大人になるまで祖父母に育てられていて、祖父母との関係性は親子の感覚でした。

母が亡くなった後も、父は比較的近くに住んでいて、連絡を取ったり会ったりすることもありましたが、親というより友達という感覚でした。親として頼れる存在でないことは、小さい頃からなんとなくわかっていたのだと思います。

——小さい頃の出来事で印象的だったことはありますか?

祖母のアルコール依存は、周りの大人に聞く限り、私が生まれる前から始まっていて、私が12歳の頃まで続いたのですが、学校から帰宅すると祖母が豹変しているかもしれないのが毎日怖かったです。

学校でいじめられた経験もあったのですが、正直、家のことの方が大変で、構っていられないくらいで。祖母が飲酒後に漏らしてしまうこともあって、その後始末をしたり、食器洗いや洗濯などの家事をしたり、ご飯も自分で用意していました。

加えて祖母は性格にも難があって、きつい言葉をかけられることも多かったです。でも優しいところはあったし、愛情をかけてもらったこともあるので、嬉しいと感じることもありました。

あと、祖母から「キチガイ」と呼ばれていたのですが、「差別語なのでそのまま載せるのはやめておこう」という話になり、作中では別の言い回しにしているのですが、そんな言葉を日常的に言われていたことに、後から衝撃を受けました。

——小学生の頃に、急に胸が痛くなることがあったと描かれています。

学校にいるときに過呼吸になって、先生に保健室に連れて行かれました。その後、祖母と一緒に病院へ行ったのですが、検査の結果、異常はありませんでした。それで医者に「困っていることやストレスはない?」と聞かれたのですが、小学生なので胸が苦しいこととストレスに関係があるのかわからなくて。少し考えている間に祖母が「何もないですよ」と答え、そのまま帰されました。

——親がストレスの原因かもしれない、という想定も必要ですね。家の中で起きているトラブルを知られたら、恥ずかしいと思ったり、隠そうとしたりする子どももいると思いますが、ゆめのさんは当時どう思っていましたか?

祖母がお酒を飲んだ後に漏らしてしまうことについては、処理が終わった後に、軽口のような感じで、「うちのばあちゃんやばいんだよね」と友達に話したことはあります。

祖母がアルコールが入った状態で、原付バイクに乗ってしまって、そのままふらふら倒れたりした姿を友達に見られていたことがあって。学校で「おばあちゃん大丈夫なの?」と聞かれれば「大丈夫、気にしないで」と隠していました。知られちゃいけないことだとは思っていたのですが、子どもの頃は異常なことなのかはわからなかったです。

『さよなら毒家族 アルコール依存症の祖母の呪縛から解放されて私を取り戻すまで 』より (C)ゆめの/KADOKAWA
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親に囚われ続けるのはもったいない

——結婚を機に実家を離れて暮らすようになりますが、それでも「この世から消えてしまいたい」とおっしゃって苦しむ様子が描かれています。その後、生きることに前向きになれた分岐点はどんなことだったのでしょうか。

結婚後も祖母のことは好きで、週に何度も電話したり、荷物を送り合ったり、実家に帰ったり
と頻繁に交流していました。でも、あるとき「なんだか、ばあちゃんのこと苦手だな」と違和感を覚えるようになったのですが、そう思う自分を否定する気持ちも湧いてきました。

祖母とコミュニケーションを取ると疲れていることに気づいたのですが、最初はなぜ疲れるのかがわからなくて。色々と思い返して、「毒親なのかもしれない」と思い始めたら、違和感が止まらなくなりました。

最初は「しばらく電話してこないで。そっとしておいてほしい」と電話を拒否したものの、1週間後にはまたかかってきて、祖母は本当に自分勝手な人だと思いました。しかも私に拒絶された理由が、少し前に祖母が「旦那に料理を作らせるなんておかしい」と言ったことだけだと思っていて、小さい頃から苦しかったことの積み重ねが祖母には全然見えていないことに絶望しました。

それから「こんなに身勝手な人に疲れると思いながら付き合う必要性はない」「親子だからずっと一緒にいなきゃいけない、好きでいなきゃいけないと思わなくてもいい」と考え始めました。

年齢的に考えれば、祖母は私より早く死にますが、それまでの時間だって決して短くありません。今後の私の長い人生の中で、ずっと親に囚われたくないとも。私は自分の幸せを早く取り戻し、幸せにならないと、人生がもったいないと思うようになったんです。

——毒親問題で悩む中で、疲れてしまって、幸せに向かっていくエネルギーが枯渇する人もいらっしゃいますが、ゆめのさんはどうやってエネルギーを持てたのでしょうか。

祖父母と暮らしていて、目の前の日々を生きることに必死だったときは、自分の人生が一度きりという意識がなかったんです。「今苦しければ、二回目の楽しい人生があるだろう」とぼんやりと思っていて。

実家を離れてから、メンタルに関する本を色々と読んでいくうちに、人生が一回きりだという認識が強くなって、元気に生活できる期間は意外と短いかもしれないことにも気づきました。今まで時間を無駄にしてきたことにゾッとしましたし、落ち込んでいる暇はないとも思って。私の幸せを一番に考え、一生懸命生きなければもったいないと考えるようになりました。

——機能不全家族で育った場合、感情を抑えて生活するため、やりたいこと・やりたくないことがわからなくなっている人もいると思いますが、どう向き合ったのでしょうか?

認知行動療法の一環で、出来事とそのときの感情をノートに書いていくことで、自分がどんな場面でどういうふうに考えるのか気づけるようになりましたし、考え方の癖も見えてきました。

カウンセリングの影響も大きかったです。以前は本当に我慢をしてしまう性格で、たとえば友達と出かけた際に「トイレに行きたい」と言い出せなかったんです。自分がトイレに行くことで話の腰を折りたくないとか、友達が「なんでこのタイミングでトイレに行くんだよ」と思うかもしれない、と考えてしまって。

でも、カウンセリングを受けたことで、自分が我慢をしていることを自覚できるようになりましたし、自分を一番に考える方法がわかるようになってきました。我慢しないように生きてみようと思って、とにかく絵を描くことが好きだったので、絵を描く時間を設けたり、おいしいものを食べるようにもしました。

※後編に続きます。

『さよなら毒家族 アルコール依存症の祖母の呪縛から解放されて私を取り戻すまで 』より (C)ゆめの/KADOKAWA
『さよなら毒家族 アルコール依存症の祖母の呪縛から解放されて私を取り戻すまで 』(C)ゆめの/KADOKAWA

 

【プロフィール】
ゆめの

漫画家。夫婦の日常や毒親育ちのエッセイ漫画を描く。

■ライブドアブログ
https://yumenobear.blog.jp/

■Instagram:@yumeno_bear

 

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雪代すみれ

雪代すみれ

フリーライター。企画・取材・執筆をしています。関心のあるジャンルは、ジェンダー/フェミニズム/女性のキャリアなど。趣味はヘルシオホットクックでの自炊。



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