障がいのある人への不寛容はなぜ生まれる?「障がいのある女性の子育て」について有識者と考える
障がいのある女性が子どもを産み育てることにはハードルがあります。「性と生殖に関する健康と権利(SRHR:Sexual and Reproductive Health and Rights)」の観点からは、誰もが自分で自由に選択できるような社会であるべき。埼玉大学ダイバーシティ推進センター教員で、『障害があり女性であること 生活史からみる生きづらさ』(現代書館)の執筆者の一人である、瀬山紀子さんに、障がいのある女性の子育てが困難になっている理由や、「子育ては全て自分(家庭)で責任を背負うべき」という考えが、障がいの有無を問わず、私たちを苦しめていることなどについて、お話ししていただきました。
障がいのない人も含め、みんな誰かの力を借りて生きている
「自分の始末が自分でできないなら、子どもを持つべきではない。かわいそう」と「障がい者が子どもを持つのはわがまま」という言葉は今でも聞かれます。
前編では「障がいのある人が生きにくい社会の延長に、障がいのある人が子育てをすることや、障がい児を育てにくい問題、さらには障がいのある子も含めた、子どもを安心して産み、育てにくい社会を支えているという現状があります」と、瀬山さんから言及がありました。
確かに「自己責任論」が根強い今の社会では、障がいがなくても、子どもを産み育てることのハードルが非常に高く感じます。障がいがあって子育てをしている人たちの姿から、こうした状況を変える可能性があることを、瀬山さんはお話ししてくださいました。
「障がいのある人たちは、家族以外の介助者など、人との関わりを必然的に必要としていて、人と関わりながら子育てをする実践を積み重ねてきています。人にサポートを求める達人でもあって、自分のことを他人に任せて生きています。その意味で、人間同士の関わりが持つ可能性や、『他人を信じる力』を思い起こさせてもらってきました。その姿は新しい形の家族や、新しい子育てのあり方に結びついていくと思います。
『障がいがあったら子育てができない』と主張する人の中には、『子育てはすべて家庭で責任を背負うべき』という規範の中で生きている人もいます。でも、障がいのない人たちも多かれ少なかれ、人のサポートを必要としながら生きているんですよね。一人で暮らしている人も、実際は全てを自分でまかなって生活しているわけではなく、間接的にであっても他人の力を頼っている。でも見えにくいので、人を信頼できない、全て自分で責任を持たなければならないくらいの気持ちになるのかもしれません。その点、障がいのある人たちは、より見える形で日々の生活を他者の手に委ねながら生きていて、その姿から学べることは多々あると思います」(瀬山さん)
障がいのある人たちの子育てを困難にしているのが公的支援の不足。2022年に北海道の障がい者グループホームで、結婚を望む利用者に不妊手術を受けるよう求めていたことが明らかになってから、国は障害者総合支援法に基づき、子育てを含む障がいのある人の地域生活支援を行うことを徹底するよう通知を都道府県・市町村に出しています。
とはいえ、「家族介護」が原則になっており、瀬山さんは「子育て支援策において、介助を受けて暮らす障がいのある人の子育てが想定されていない」と指摘します。
「たとえば、居宅介護(家事援助)の中に、育児支援のための介助サービスがあるものの、『他の家族等による支援が受けられない場合』という条件があり、同居人に健常の配偶者がいるとサービスを受けることができないとされてしまっています。また、居宅外での育児は通園などの限定的なものと想定されており、介助を受けながら、子どもと一緒に公園に遊びに行くといったことは基本認められていません。
障がいがある人でも子育て支援を受けられる方向に進んではいるものの、障がいがあって子育てをしている人の生活実態に沿った支援が柔軟になされるような制度になっているとは言えません。支援策がもっと多様な生き方を認め、障がいがある人のニーズに沿って、広がることが必要だと考えます」(瀬山さん)
障がいのある人が子どもを産み育てる選択もしやすい社会にするためには、何が必要なのでしょうか。公的支援が足りないという仕組みの問題と同時に、社会の寛容性が少ないことの影響も大きいといいます。
「生まれたときから障がいがあったり、何らかのきっかけで障がいを持つことになったりする。子どもを産む人や子どもの中には障がいのある人もいるのが当たり前。そういったすでにある社会の多様性への認識とそれへの寛容性が社会の中に醸成されていないことが、障がいのある人が子どもを産み育てることのハードルになり、障がいのある子を育てることへのバッシングにもつながっていると思います。
子どもを産み育てていくことの中には、障がいのある子が生まれることがある。このことも、もっと知られてよいと思います。障がいのある人たちが存在しているという事実や、障がいが困難の原因になってしまうような今の社会のありようについて、社会が向き合う必要があると思います。
私は大学生の頃から障がいのある女性たちと関わりを持ち始め、彼女たちと出会ったことによって、見えたことがあったり、広がった人間関係があります。強調して話す必要はないのかもしれませんが、障がいのある人と繋がりのある人たちが、そうした、自分の得たことについて伝えていければとも思います」(瀬山さん)
「障がいがあって」「女性であること」の持つ力
「障がいがあって」「女性であること」という2つのマイノリティ属性を持つことで、複合的な課題が生じたり、困難さがあったりします。障がいがあることで、施設や親元など、生活の選択肢が限られており、一人暮らしをしようとすると、家族や周囲からも、男性の障がい者以上に、心配される傾向があります。実際に泊まり介助など人員不足があり、特に女性の夜間ヘルパーの不足もあり、障がいのある女性の一人暮らしのハードルは高いのは事実です。とはいえ、「ネガティブな側面ばかりではありません」と瀬山さんは強調します。
「介助者に頼りながら生活をすることは、人に指示を出し、暮らしのサポートを受けるということ。ですが、女性はジェンダー規範から、男性よりも人に対して指示を出すことに慣れていない人が多い。受け身であることや、“かわいらしさ”により女性としての価値がおかれる社会では、介助を使って人とかかわりながら生きていく障がい女性たちにとって、ジェンダー規範との齟齬をうめながら生活していくことの難しさがあります。
自立生活をする障がい当事者の人たちの間で、これまでにも、『リーダーシップトレーニング』といったものが開かれてきて、そこでは自分が自分の人生のリーダーとして生きていくこと、具体的には介助者をどう頼るか、どうやって指示を出しながら暮らしていくかを学ぶ実践が行われてきています。ジェンダー規範からの解放という点で、障がいの有無を問わず、多くの女性たちが受けるとよいトレーニングだと思います。
そういったトレーニングを受け、介助者に指示を出しながら生きている障がいのある女性たちは、一般社会の中で『女性らしさ』を求められ、内面化して生きている女性たちよりも、自分の人生にリーダーシップを持って生きている。『障がいがあり』『女性であること』は、『女性らしさ』という規範から自由になる力にもなってきたのです」(瀬山さん)
障がいのある人は「できない」と捉えられがちです。たとえば生理の始末が自分でできないことによって、恥ずかしかったり、大変なこともあって、苦労する場面も少なくないといいます。一方で「できなさ」が大きな力を持っている側面もあるとのことです。
「『できるようになること』を求めるのではなく、できないからこそ、別な仕方でやってみる。やり方は一つではないこと、誰かに関わってもらう技術を彼女たちは高めてきている。
『障がいがあって』『女性である』ことは困難さの側面から、ダブルマイノリティやインターセクショナリティ(交差性)といった視点から取り上げられます。ただ、重なり合いの中には、困難の重複という側面だけではなく、規範を超えていく力があるという点は大切だと思っています。
『障がいがあって』『女性である』ことに注目することは、障がいがあって、男性/トランスジェンダー/ノンバイナリー(自分の性自認や性表現を男性・女性に当てはめない人)である人に目を向けることを妨げません。
むしろ個々人が自分の立ち位置を確認し、自分がどういう立ち位置にいるのか、社会のなかで、どういう力関係のなかに置かれているのかを確認していく意味合いがある。マイノリティ属性が重複して困難さが大きくなることに注目するだけでなく、社会的なカテゴリーや規範との関係で、どういう重複が生まれているかに目を向け、自分のことに目を向けると同時に、他者にも、目を向けることが大切だと思います」(瀬山さん)
【プロフィール】
瀬山紀子(せやま・のりこ)
埼玉大学ダイバーシティ推進センター教員。大学院で社会学を学んだ後、公立女性関連施設で事業コーディネーターとして勤務。また、東京都内の障害者自立生活センターで介助者をしている。専門は社会学・ジェンダー論。
共編著に『障害者介助の現場から考える生活と労働——ささやかな「介助者学」のこころみ』(明石書店)、『官製ワーキングプアの女性たち あなたを支える人たちのリアル』(岩波書店)。共著に『往き還り繋ぐ——障害者運動 於&発 福島の50年』(生活書院)、『障害があり、女性であること 生活史からみる生きづらさ』(現代書館)。
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