【レビュー】現代音楽家が睡眠のために作曲した「8時間の子守唄」と人生を覚醒させる美しき眠りの世界
2021年3月26日より公開されている映画『SLEEP-マックス・リヒターからの招待状』をレビュー。
ヨガのレッスンの最後に出てくる安らぎのポーズ(シャヴァーサナ)。あまりにも気持ちがよくて意識が遠のき、眠ってしまった経験がある人もいるのではないだろうか。正しいシャヴァーサナは意識をキープするものだとわかってはいても、私はほぼ必ず寝てしまう。眠っているのはほんの数分のはずなのにインストラクターの声で目覚めたときのすっきり感と言ったら、意識が澄み渡るというのはこのことかと毎回思う。眠りが人に与える影響の大きさを改めて実感する瞬間だ。
現代音楽家が作曲した「8時間の子守唄」
この眠りのために楽曲を作った音楽家がいる。現代音楽家マックス・リヒターだ。彼は聴きながら眠ってほしいという願いと込めて8時間以上に及ぶ大作「SLEEP」を作り上げた。そしてこのドキュメンタリー映画『SLEEP マックス・リヒターからの招待状』にはこの曲を真夜中から明け方にかけて演奏するコンサートの様子が描かれている。コンサートで観客を迎えるのは客席ならぬ客ベット。リヒターは観客たちに「これは8時間の子守唄です」と告げ、ピアノの前に座る。観客はリヒターたちの奏でる音楽を聴きながら眠ってもいいし、そのまま起きて聴き続けてもいい。会場を歩き回ってもいい。「コンサートで寝てはいけない」という音楽界の常識を覆す試みだ。
このイベントを考えたのは映像作家のユリア・マール。彼女はリヒターのプライベートでのパートナーであり、世界中を飛び回って公演を行うリヒターに同行し彼の演奏を聞いていた。しかし子どもが生まれると家に残って子育てに専念するように。ネットで配信される彼のコンサートを家で見ていたが、家事と育児の疲れから音楽を聞いているうちに眠ってしまう。そのとき味わった夢と現実の間を彷徨う感覚をユリアは単なる眠りだとは考えなかった。意識が動から静、そして動へと戻る感覚はまったく新しい音楽体験だと思った彼女はそれをリヒターに語る。そこから「SLEEP」、眠りのための音楽が生まれた。
リヒターはこう話す。「睡眠状態は大きな意味をもつ。起きている時間のために欠かせない」。しかし現代社会で大切なのは活動的であること。仕事にしても趣味にしても家事にしても、何かを生み出すこと、生産的であることが評価される。だから眠りは空白の時間としてないがしろにされがちだ(ちなみにリヒターもこのイベントの前日、リハーサルをして問題点を洗い出した後「”寝ないで”それを改善した」と言っている。眠りの大切さを知っているリヒターにしてもそうなのだ)。でも私たちは眠りが欠かせないことを本能的に知っている。ほんの短い間でもぐっすり眠ることでどれほど頭がすっきりするか、実感しているはずだ。安らぎのポーズでそれを知った人もいれば、クラシック音楽を聴きながらでぐっすり眠ってしまい気がついた人もいるだろう。
コンサートに来た観客たちは、リヒターの音楽を聴きながら眠ったことで時間の捉え方、パートナーとの関係のあり方が変わったと語る。眠りは気持ちを一新してくれるだけでなく、人生観まで覚醒してくれるのだ。ちなみにシャヴァーサナはご存知の通り「死体のポーズ」という意味。「死」とは命の終わりではなく目覚めたときに生まれ変わった意識で日常に戻るということを意味しているという。リヒターの観客たちが体験した眠りも同じように「死」と言えるだろう。睡眠が日々の生活の中にある生まれ変わりのチャンスであることをこの作品は教えてくれる。
映画『アド・アストラ』『ふたりの女王 メアリーとエリザベス』などの映画音楽も手がけてきたポストクラシカルを代表する現代音楽家マックス・リヒター。彼が手がけた眠りのための音楽「SLEEP」を演奏した真夜中のコンサートの様子を公私に渡るパートナーで映像作家のユリア・マールのインタビューと共に描く。監督はドキュメンタリー映画の名手ナタリー・ジョーンズ。コンサートに実際に参加したかのような極上の癒しをスクリーンで体感できる。3月26日(金)より新宿シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ渋谷・有楽町ほか全国公開。
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AUTHOR
長坂陽子
ライター&翻訳者。ハリウッド女優、シンガーからロイヤルファミリー、アメリカ政治界注目の女性政治家まで世界のセレブの動向を追う。女性をエンパワメントしてくれるセレブが特に好き。著書に「Be yourself あなたのままでいられる80の言葉」(メディアソフト)など。
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