子育てが楽しくない・しんどい…“大丈夫じゃない”親たちへ|原っぱ大学・塚越さんが伝えたいこと
神奈川県逗子市。鎌倉と葉山の間に位置し、海と山に囲まれた豊かな自然が息づく地に、親と子の遊びの学校「原っぱ大学」はあります。山道を登ってたどり着いたのは、杉林の中に佇む秘密基地。ここでは、大人も子供も関係なく皆が日常から解き放たれて、思いきり遊び、笑っています。コロナ渦でさまざまな不安が重なり、子育てがちょっとしんどくなっている私たちに、「原っぱ大学」の代表である塚越暁さんが届けてくれたメッセージ。焚火を囲み、鳥の声に包まれ、自然と一体化できそうな「原っぱ大学」のフィールドにて、お話を伺いました。
「子育てがしんどい…」子育ての多くのケース、大丈夫じゃないのは“大人”のほう
―――親子で思い切り遊ぶ、というコンセプトの「原っぱ大学」とはどんな場所なのでしょうか?始められたきっかけも教えてください。
僕はもともと東京に住んで、リクルートという会社でずっとサラリーマンをやっていました。26歳で結婚して、27歳で子どもが生まれて…。仕事に没頭する日々だったから、貴重な休みの日に子どもを公園に連れていくのが正直苦痛で仕方なかった。公園に行くと、息子は延々と滑り台を繰り返したりしていて、こっちは携帯でちょっと写真を撮ってあとはただ座って待つだけという感じで、はっきりいって退屈だったんですよ。それが、長男が幼稚園に入るタイミングでたまたま自分の出身地の逗子に戻ってきたことで子育てが一変したんです。
それまでは休みの日というと子どもと公園やショッピングモールに行っていたのが、逗子に帰ってきたら日常に僕がかつて育ったフィールドがあった。息子と山の中で秘密基地を作ったり、海で遊んだりしていたら「あっ、子供と遊ぶのってこんなに楽しいんだ」って驚いて。
そんな日々を過ごしていたら2011年の東日本大震災が起こって、それをきっかけに今までのサラリーマン人生に疑問を持ったんです。自分は何者なんだろう、何ができるんだろうって考えたときに、東京に住んでいた頃の僕のような親がいっぱいいる、そういう人たちにこのフィールドで親子で遊ぶという価値を届けてみようと思って、「原っぱ大学」の前身にあたる「子ども原っぱ大学」を始めました。
―――立ち上げから8年経った今、振り返ってみて、この活動を続けてきて気づいたことはありますか。
当初はわりと能天気に「大人も子どもも皆で遊べばいいじゃん!」くらいに思っていたんですけど、徐々に見えてきたのは大人のしんどさみたいなもの。子どもは全然大丈夫なんですよ。親の方が「世間の目や親としての役割、責任感といったものでがんじがらめになっているな」と気付きました。
「この子をちゃんとした大人にしなければいけない。この先AIに仕事を奪われていく世の中で、我が子をクリエイティビティにあふれ、グローバルに生きていける子にしなければならない」っていうような責任感でガチガチになっていたり、公園での過ごし方ひとつとっても、他の子のおもちゃをとったりしていないかなど、人に迷惑をかけてはいけないかと常に親としての役割を背負って緊張していたりする。
原っぱ大学に参加する際も「子どもに自然の中で遊ばせないといけない」と「親の責任感」から来てくれるケースがあります。「うちの子は自然に触れたことがほとんどないから上手に遊べないと思います…」などと言って。でもそういう都会で育った子がここに来た瞬間に親の予想を裏切って山の中をブワーっと走り回り、怖がることなくマッチで火をつけたりするわけです。要はその子自身がもっている野性の本能みたいなものが発露されるんです。それを目の当たりにすると、責任感や役割意識で凝り固まっていた親自身が溶けていくんです。「あ、この子を信頼していいんだ」と自然と思える。
そうなると今までは縦の関係、子どもを導き教える関係だったのが、人と人とのフラットな関係になっていくんですよ。もちろん普段の生活の中ではしつけが必要だったり親子って上下関係がなくてはいけない部分も多々あります。でも、遊びという空間においてはフラットな関係になっていく。すると自然と、親が子どもの前で失敗できるようになっていく。焚火をしようとしても全然上手くいかない、ノコギリや斧が上手に使えない。そんなカッコ悪い自分もさらけ出して子どもと一緒に笑い合えるようになる。そうやって大人が変わっていくと、親子の関係も変わっていく、そんな気がします。
「コントロールされない体験」で、子どもたちが得られるもの
―――あまり自然に触れたことのないお子さんだと、この環境に戸惑ったり、人見知りをして知らない子と上手くなじめないという子もいますよね。
保育園や学校の集団生活になかなかなじめない子もたくさんここに遊びに来るんですけど、ここで解き放つと抜群に素敵なわけです。彼らの中にやりたいがあふれていて、エネルギーでいっぱいになっている。そのエネルギーが野で爆発してる。
一方で、こんな環境ですが、走り回って遊ばない子もいます。焚火のそばから一歩も動かなかったりとか、静かに地面をほじっている子。わざわざお金を払ってフィールドに来ているから、親の期待は当然、思いっきり走ってどろんこになって夢中に遊ぶ我が子を見たい、ってことが多いわけです。だから、焚火の前に座ってじっと動かない子どもに「ほら、あなたも皆みたいにどろんこになってきなさい」なんて促すシーンが時々あるんですね。
でも、僕らが伝えたいのは「そうじゃなくていいんだよ」っていうこと。遊びには目的も成果もない。「自然の中でたくましく生きれるように」なんて目的がある時点でそれはもう遊びじゃない、学びなんですよ。
親の期待はいったん置いておいて、自分がやりたいようにやっていいんだっていう空気を大切にしています。没頭している姿ってすごいエネルギッシュなんです。見た目の派手さは走り回っている子のほうが激しいけど、じっと自分の世界に入り込んでいる子の姿も力強い。でもそこにはその子自身があふれている。そうやって「自分自身の存在そのもの」になっていくということを体感してもらえる場となればと思っています。
―――お友達を沢山つくって元気いっぱいに遊んでほしいと、つい親としては思ってしまいますが、そうじゃなくていいんですね。
そういう一般的な親の期待をいったん置いて、その子自身を見てほしいんですよ。一見、ただ焚火の前でじっと静かにしているようにみえて、実はよく観察すると枝を持って先っぽに火をつけてみたり、それで地面に何か書いたり、自分なりに試行錯誤して色んな実験をしているんです。でもそこでその枝をふりまわすと、たいがい親は先回りして「危ない!」ってすぐに止めるんです。
そこをちょっと待ってもらうのが僕らスタッフの役目。もちろん本当に危険なときは止めますが、これやったら危ないかも、迷惑かも、怒られるかもっていうのをちょっとだけ手放して、いいから遊ぼうぜ!って。その子が自分自身でいられるっていうのが大事なことで、どろんこ遊びをすることが目的ではありません。
「自分を傷つけない」「人を傷つけない」ということ以外に正解はない
―――もともとのその子自身を大事にして、親として「こんな子になってほしい」という理想を手放すことが大事なんですね。
そうですね。理想を手放さなくてもいいけど、理想通りにいかないこともあるし、そのときにその状況を面白がれたらみんなハッピーですよね。原っぱ大学には、2つだけルールがあって「自分を傷つけない」「人を傷つけない」ということ。子育ても、この2つを大切にできれば、他には正解はないと考えています。例えば、探検に出かけるって言って険しい崖にガンガン向かっていく子がいる。一方で、足がすくんじゃって私は無理っていう子も当然いるんですね。でもそれは弱いということではなくて「私はこれ以上行かない」っていうジャッジができたということ、要は危険察知能力が高いということなんです。そうやって見るとその子の判断がポジティブに思える。「ほかの子と比べてしまってうちの子は…」って思うと、どうしても足りないとか弱いとかの話になっていっちゃうけど、別にどんなあり方でもその子そのものは大丈夫。それは紛れもないことだと思っています。ぐるっとまわって、お母さんも大丈夫、お父さんも、皆大丈夫なんです。そのことに気付けることが、必要なのかもしれないですね。
―――「うちの子は大丈夫!」とはなかなか思えない…すぐに心配してしまいます。
難しいですよね、でも「大丈夫」って思えないで子育てしていると辛いですよね。この子はこのままでいいんだろうかとか、この学校にいて大丈夫なんだろうかとか、親としての失敗を恐れる。その思いが強すぎると、どんどん自分が武装せざるを得なくなってがんじがらめになっていっちゃう。僕自身だってそんなときはあるし、たぶん誰だってそう。そりゃ不安もありますよね。だから原っぱ大学では、ここにいるときぐらいは、この場では失敗を楽しむ、迷惑をかけ合う。それでいいじゃん、って思うんです。「いいじゃん失敗しても、大けがしなけりゃ。いいじゃん迷惑かけたって、仲間なんだから」って。もちろんそれぞれの日常ではそのまま通用しないようなこともあるけれど、ここにきたらそこは体感できるんだって。
学校選びで悩む親御さんもたくさんいますけど、僕自身は学校教育に過度な期待をしていないんですよね。自分の子どもたちは地元の公立校に通っています。今はいろんなオルタナティブな学びの場の選択肢が広がってきているけど、そういう学びは後からどうとでも学べると思っています。うちの子たちはどんな環境にいても大丈夫だよ、うちの子はって思えるので、学校うんぬんよりも親子の信頼関係があればそれでいいんじゃないかと思っています。
―――将来に対する漠然とした不安で苦しくなるよりも、今を大事に、子どものありのままを認めることが大切なんですね。
うーん、これが難しくて(笑)。言葉にすると捉われてしまいがちです。あるがままを受け入れなきゃいけない、受け入れられていない私は親としてダメなんだっていう風に受け取られてしまうことがあるんですよね。でも「ダメ」だなんてことなくて。僕はそれでもいいんだよ、と言いたい。理想の親像とは遠いかもしれない。でも、そんな不完全でダメかもしれない自分自身を、いいんだよ、大丈夫ってギュッと抱きしめてあげられるのが一番だと思っています。
理想にむかって努力するのもいいし、今はちょっと頑張れないという自分もあり! どっちだってありだし、どっちだっていい! 儒教で中庸という言葉がありますよね。自分にとって心地いい、ちょうどいい状態を探っていくというか。
なんて、こうやって偉そうに語っていますけど、僕だって当然感情で揺れ動くし、感情に支配されてこんちくしょうって思うこともありますよ。そういうものじゃないですか、そういう自分も含めて自然な状態なんですよ。だから、将来に対する不安とか、役割でがんじがらめになっている自分はちょっと置いておいて、今この瞬間やりたいことをやるという時間があったらいいなと思います。
―――ヨガと思想が近いものがある気がします。ヨガで大事にしている「今ここ」ということを、遊びを通して実践されているというか。
僕は「原っぱ大学」を始めたのと同じくらいの時期に座禅も始めているんですよ。座禅というのは「調身、調足、調心」。体を整えて息を整えると心が整うという。ヨガと似ていますよね。僕にとっては座禅で「座る」ということと「遊ぶ」ということがすごく近いと思ってやってきているんです。でもこれは言葉で言っても伝わることじゃないし、思考で解決できるものでもないんですよね。
―――ヨガの世界でも背骨をまっすぐにして、体を整えることが心を整えることにつながるという考え方があります。
やっぱり、似ていますね。「さぁ、まずは心を整えましょう、自分は大丈夫だと思いましょう~」なんていきなり言われても嫌じゃないですか(笑)。言われたってできないし。心の在り方っていうのはあとからついてくるものだと思うから、いいからごちゃごちゃ考えないで遊ぼうぜ!っていうのはそういうことなんです。ここに来て体感してもらえれば早いけれど、皆さんが住んでいる場所でも意識の持ちようでいくらでもできることだと思います。とにかく子育てに悩んでいる方は、めちゃめちゃに子どもと一緒に遊ぶ時間をつくってみてほしいです。
塚越暁さん/プロフィール
1978年生まれ、神奈川県逗子市出身。親と子の遊びの学校「原っぱ大学」のガクチョー(学長)。HARAPPA株式会社代表取締役。2児の父。2012年、子どもと本気で遊ぶのが楽しくて「子ども原っぱ大学」を立ち上げる。現在は逗子のフィールドを中心に、千葉県や大阪府にも活動の場を広げている。原っぱ大学HP
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