己と向き合い邁進!インド聖地巡礼の旅
お腹もいっぱいになり(とはいえ、この前の失敗から学んで腹八分目だが)、私たちは最後の目的地に向けて出発した。相変わらず上り坂が続いたが、最後の道のりは前日の行程よりも楽に感じられた。そのため、心がさまよう余裕が生まれた。このヒマラヤの高地でサドゥーたちと巡礼路を分かち合い、ババと共に洞穴でチャンティングや瞑想をしてから、私は再びアイルランド系のカトリック教徒だった祖母のことを思い始めた。私がインドを巡礼したと言ったら、どう思うだろう? ヒンズー神話に渋い顔をするだろうか。それとも、頂上で聖母マリアをたたえなさい、と言うだろうか。だがいちばん知りたいのは、祖母がクロー・パトリックに裸足で登ったときに湧き起こった感情だ。私がゴームクに向かう道中で感じた感情に似ていただろうか。
残念ながら、祖母は10年前に他界したので、その答えを知るすべはない。ただわかっているのは、祖母が巡礼をしてまもなく、アイルランドの小さな村に住む家族や知人のもとを去り、ニューヨークに移住したことだけだ。クロー・パトリックの頂上には小さな白い教会があり、巡礼者たちは山を下りる前にそこで祈りを捧げる。私は、若かりし祖母がその教会に入っていき、ろうそくに火を灯す姿を想像した。祖母は祖国を離れる勇気と、アメリカで待ち受ける未知の世界に祝福がもたらされるように祈ったかもしれない。
ゴームクでは、川が流れ出す巨大な氷穴を守るようにそびえ立つ山々の間に、小さな石の祠があった。祠に着くと、私は靴を脱いでシヴァ神の像の前でひざまずき、両手を胸にあてた。それからガンガーが流れ出る源からほんの数メートルの岸に向かい、お辞儀をした。そして心の痛みや過去を乗り越えて、まだ見ぬ未来へと迷いなく心地よく向かえるように祈った。まわりにいた数人も私と同じように何かを胸に感じながら、このすべての源で自分たちのまわりや内面にあふれる、穏やかで心地よいエネルギーに浸っていた。
氷のように冷たい水を両手ですくって飲んだとき、若かった祖母がアイルランドを離れるときに経験したであろう喪失感と希望を感じた。それはまさに私自身の過去の痛みと、これから待ち受けるものへの期待に似ていた。両手を開いて残りの水を手放しながら、その透明なしずくが落ちて川となっていくのを見ていた。その瞬間、信仰にかかわらずなぜ人々が巡礼するのか、そしてなぜ自分が今ここに来たのかがわかった。巡礼の旅は、人生そのものだ。祖母が言ったように、後退や苦悩と同じだけ、勝利や美しさに満ちている。何を信仰しているかは問題ではない。
サドゥーやババが崇めるヒンズーの神々であっても、祖母が崇めた三位一体でも、あるいは信仰する神がいなくても、旅は、私たち誰もが恐れや悲しみと向き合い、未来に待ち受ける恩恵を信じながら、己の道を歩んでいることを思い出させてくれる。
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