夫婦間の暴力が「暴力とみなされない時代」はいつまで続く?「愛の証」とされている暴力について考える

 夫婦間の暴力が「暴力とみなされない時代」はいつまで続く?「愛の証」とされている暴力について考える
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エコーチェンバー現象や排外主義の台頭により、視野狭窄になりがちな今、広い視野で世界を見るにはーー。フェミニズムやジェンダーについて取材してきた原宿なつきさんが、今気になる本と共に注目するキーワードをピックアップし紐解いていく。

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Netflixのオリジナルドラマ「離婚しようよ」(宮藤官九郎と大石静による共同脚本)は、離婚に向かう夫婦をコメディタッチで描いたホームドラマだ。本作は世界配信を前提に作られ、世界配信の興行はふるわなかったが、日本ではおおむね好意的に受け入れられたようだ。

しかし、私は第一話を見て、ドン引きした

「ちくしょう」といいながら、妻を抑えつけセックスする夫

第一話で、夫婦は、お互い離婚を考えている。しかし、ふたりはセックスをする。なぜなら、妻の服が雨に濡れている様子を見た夫が欲情し、妻に襲いかかるからだ。妻は、「やめて」と言うが、夫は「ちくしょう」と言いながら、嫌がる妻の手を押さえつけ、無理やり服を脱がせようとする。すると、妻は、そのうち、なんとなく夫を受け入れ、結局、そのセックスは「よかった」となる。

男性から暴力的にセックスに持ち込まれた女性が、最初は嫌がっているけれど次第に快感を得る……というAVのテンプレが、ここでは「普通の夫婦のセックス」として描かれている。

私はこの場面を観た際、夫婦間のレイプじゃん……とドン引きしたのだが、ネット上でこのツッコみを入れている人は見当たらなかった。どうやら、こういった夫婦間の強制的セックスの在り方について、疑問を抱く視聴者は多数派ではないらしかった。

50年前に描かれた、"愛ゆえに"家族を殴る父。『寺内貫太郎一家』

本作を観て、私は50年前の大人気テレビドラマ『寺内貫太郎一家』(向田邦子脚本)を思い出した。

本作は、小林亜星が演じる頑固おやじ・寺内貫太郎と、その家族のドタバタ劇がコメディタッチで描かれたホームドラマだ。笑って泣けるシーンが多々あり、面白く観られる作品だとは思うのだが……貫太郎は、ほぼ毎話、家族を殴っている。息子を殴り、妻を殴り、娘を殴る。貫太郎は家族を愛している。それゆえ、殴る。

最終話、貫太郎の娘・静江の結婚式で、静江は夫に向けてこうスピーチする。「私に至らないところがあったら、どうか殴って下さい」。静江のスピーチを聞き、寺内一家は涙する。貫太郎にとって、寺内家にとって、父であり夫が家族を殴るのは、愛の証なのだ。

……もちろん、現代ではこのようなホームドラマは作られることはない。家族間の暴力は、愛ではなくDVと捉えられるのが現代だからだ。

このドラマがお茶の間の人気を獲得した1970年代には、DVという言葉は一般的ではなかったし、DVは犯罪とは認識されていなかった(※1)。父が、妻、娘、息子を殴るのは、愛だった。父親には、家族を殴る権利があると考えられていたのだ。

いまは、夫が、妻や子供を殴る権利はないと考えられている。しかし、夫が嫌がっている妻にセックスを強要する権利はあると考えられているのだろうか?

セックスする権利

オックスフォード大学教授アミア・スリヴァサン著『セックスする権利』では、アイラ・ヴィスタ銃乱射事件をもとに、「なぜ、一部の男性は、自分が女性とセックスする権利があるはずだと思っているのか」について論じている。

アイラ・ヴィスタ銃乱射事件とは2014年、22歳の大学中退者エリオット・ロジャーが起こした殺人事件だ。エリオットは事件を起こす前に、YouTubeに犯行動機を語る動画をアップした。そこで語っていた動機とは、「人類の女どもが僕の価値を認めなかったから」。自分からセックスする権利を奪った罪で、「ブロンドの魅力的な女」を殺すことを彼は決めたのだった。

アミアは、「セックスする権利があると言う彼の意識は、家父長制イデオロギーのひとつの事例にほかならない」と述べている。また、「性的に周縁化されている男性が、女性の身体に権利意識をあらわにしてそれに反応する傾向にある一方で、性的に周縁化されていることへ異議を申し立てる女性は、たいてい権利ではなくエンパワメントについて語る」との見解も示している。

換言すれば、一部の非モテ男性は女性を攻撃することにエネルギーを向けるが、非モテ女性は「ボディポジティブ」など「非モテ」とされるコードの読み替えを行うという。非モテ女性が「男が私を好きにならないなんておかしい」「セックスしないなんておかしい」という敵意を男性に向けることは少ない。

女は自分とセックスするべきなのに……というエリオットの権利意識と、夫は、妻にセックスを強制してもいいという権利意識は、地続きだと言ったら大げさだろうか?

夫婦間の暴力が、暴力とみなされない時代は、いつまで続く?

『離婚しようよ』で描かれた、抵抗されているのに強行突破でセックスを行う行為は、カップル間であれば問題になっただろうか? 初対面の男女だったら? 強引なセックスの描写が、問題ないものとして描かれるのは、ふたりが、夫婦だからだろうか。

ほかの関係性なら犯罪になる行為でも、夫婦間、家族間ではそれがなぜか、「なあなあ」になり、ときには愛ゆえだと免責される。現在、殺人事件の4割は親族間でおきており、もっとも多い関係性は夫婦間の殺人なのだが、殺人レベルに達しない場合、夫婦間の暴力は見逃されているのが現状なのだろう。

『寺内貫太郎一家』の放送から50年たち、妻や子をなぐる夫はもはや「不器用だけど人情味あふれる魅力的な人」とはみなされなくなった。しかし、『離婚しようよ』を見る限り、妻が嫌がっているのにセックスを強要する夫は、レイプ加害者だとはみなされていないようだ。

いつの時代もドラマは、その時代の空気を映し出す。50年後、『離婚しようよ』は、きっといまとは違う受け取られ方をしているはずだ。

 

※1

日本で配偶者からの暴力(DV)が法律で禁止されたのは2001年。

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原宿なつき

原宿なつき

関西出身の文化系ライター。「wezzy」にてブックレビュー連載中。



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