聴覚障がいへのイメージを問う。漫画『僕らには僕らの言葉がある』が伝えたい“普通”とは何か
聴者のキャッチャー野中と、ろう者のピッチャー真白のストーリーが描かれた漫画『僕らには僕らの言葉がある』(KADOKAWA)。作者の詠里さんに前編では世間の聴覚障がい者へのイメージや、作品を描くにあたって感じたことについて伺いました。後編では「特別扱い」と「合理的配慮」の違い、人に対するときめきの感情について、作品を通じて伝えたいことを伺いました。
「普通に接する」ことの解釈の違い
——作品を描く前後で、聴こえない人に関するイメージの変化はどのようなことがありましたか。
障がいのある人がよく「普通に接してほしい」とお話しされますが、聞こえない人に興味を持つまでは意味が理解できなかったんです。取材を通じて「普通に接すること」について、当事者と障がいのない人とで意識のギャップがあることを感じました。
「普通に接する」とは、「特別扱いしないでほしい」ということなのですが、「聴者同士の会話と同じように口で喋ること」と捉えてしまう人も少なくないようです。聞こえない人と「普通に接する」というのは、「聞こえないことを受容してほしい」という意味で、具体的にはコミュニケーションを取るために別の手段を使うとか、合理的な対応をしてほしいということを意味しています。
でも実際には、聞こえないことがわかってて、筆談しているのに声で喋ってきたり、反対に過剰に何でもやってあげようとしたり……と対応が極端になりがちです。でも「普通に接しよう」と思った結果、そうなっているだけで悪意はないんですよね。「普通に接する」の定義が違うので、噛み合っていなくて溝ができてしまうのだと思います。
——「合理的配慮」と「特別扱い」の違いを学ぶ機会が必要ですね。
そうですね。それから、私が初めて取材に行ったときにホワイトボードを持って行ったのですが、そのことにびっくりされたことが衝撃で。私は手話が十分にはできなくて、筆談しかコミュニケーションを取る方法がなかったので、お話を聴かせていただくにあたって、絶対に必要なものだったんです。なのに「聴こえる人がホワイトボードを持ってきた」ということに驚かれてしまう。いかに聴こえる社会が聴こえない人の話を聞かずにきたのかに気づかされた瞬間でした。
その話を聴いて、聞こえないことが障がいなのではなく、「聞こえないことを受け入れてコミュニケーションをしてもらえないこと」が障がいなんだと思いました。当事者の中でも聴こえないことを身体障がいに含めるかは意見が分かれるそうです。自分に障がいがあるのではなく、「聞こえない」という自分が当たり前の状態のまま生きられない社会の仕組み自体が障がいと感じている人もいます。
——「身体障がいであるか」と意見が分かれるということは、聴覚障がい者・聴こえない人・ろう者といった言葉も異なった使い方がされているのでしょうか。
聴者は全部同じ意味だと捉えがちですし、私も最初は全然知りませんでした。でも一人ひとり意識の違いがあるので分ける必要があります。障がいとして認めてサポートしてほしいと思っている人もいれば、聞こえないことは当たり前のことで、人間の一つの特徴として認めてほしい人もいます。
——詠里さんは取材の中で言葉の使いわけについて直接伺ったのでしょうか。
いえ、ストレートに聞かれると嫌な方も多いようなので聴くことはなかったですが、ろう者という認識の方は自己紹介の際に「ろう者です」とおっしゃることが多いです。
ろう者の考えはTwitterの当事者の投稿も参考にしました。手話は文字を持たない文化なので、手話がわからない聴者にとっては、正確にニュアンスを読み取るのが難しいです。なので、聞こえない人が文字化して発した言葉から勉強させていただくことが多いですね。
ときめき=恋愛感情とは限らない
——野中くんから真白くんへのときめきが描かれてはいたものの、作中でときめきの正体が明らかにされていないのも印象的でした。
私が今まで野球部を見てきて感じたのが、野球部の空気としては、同性愛に受容的な空気ではないのですが、当然ゲイの人もいますし、フォームが綺麗とかでプレイヤーとして魅力に感じることと、恋愛的な感情が曖昧になる瞬間が全くないとはいえないとも思っていて。
野球部は「男らしさ」を求められる空気も強いんです。なので「一人前になるなら彼女がいないといけない」といった外圧もあって、彼女がいるものの、隣にいるチームメイトと一緒にいた方が楽しいとか、本人も自分の本当の気持ちがどうか自覚していないかもしれませんが、そんなことも見てて感じるんですね。その気持ちを公開するかしないかは別として、人間と人間が深い付き合いをしたときに、友情以上の感情を持つのは不自然ではないと私は思っています。
ただ、野中と真白の関係については商業BLの文脈とは線を引いています。もちろん商業BLも素晴らしい世界だとは思います。ただ私が描くにあたって、恋愛感情を描くことの難しさを感じたり、人間の気持ちを描いた上でどう処理するかを課題に感じていたりして。
私にとっては野中と真白の関係は、本人たちにとっては友情と恋愛の間にはっきりとした境目のないものです。友情でもあり、愛情でもある。どっちかじゃないといけないとは私は思っていないです。もちろん、既に親密な関係性が出来上がったあとで、その時の気持ちを言語化する瞬間は来るのかもしれないですが。
聴覚障がい者も一人ひとり考え方が違う
——今までも野球を題材にした漫画を描かれていますが、兵庫県出身であることも関係しているのでしょうか。
そうですね。私が高校野球に興味を持ったのは、生活圏の中に甲子園がある高校生の存在がきっかけです。というのも、テレビから見えてくる高校野球に対しては過度に感動コンテンツとして作られている印象を受けて、甲子園で見る高校野球とのギャップを感じてきました。
高校野球を題材にした作品でも、負けたら甲子園の情報に触れないようにすることが描かれるのですが、それは地元じゃないからできることなんですよね。地元の高校生を見ていると、もちろん負けた直後はすごく悔しいと思うのですが、その後の切り替えがすごく上手だなと思って。負けてからひと月も経たないうちに甲子園の大会があるのですが、その頃には立ち直って満喫しながら観戦している姿も見かけるくらいで。
フィクション作品ですと負けた後で楽しく試合観戦って想像できないと思うんですけど、現実は逃れられない環境下での切り替える姿があって。どれだけ努力しても勝ち負けは決まるわけで、努力でどうしようもなかった経験とその向き合い方のステップを踏めている高校生の姿が魅力的だと思います。
私の作品はよく「野球漫画」と言っていただくのですが、私にとっては「野球をしている人」を描いています。テレビやフィクション作品では見えてこない高校球児の姿があるのではないか……そんな思いが「野球をしている人」を描き始めた原点です。
——本作を通じてどんなメッセージを伝えたいですか。
今回描いたことは、手話を第一言語とする人の目線から見た聴覚障がい者の話です。なので、「聴覚障がい者は全員こういうものだ」と一般化して見られてしまうことは意図していないですし、本作を読んで「私は全然違う」と感じる当事者の方もたくさんいると思います。
マイノリティ属性は一括りにして見られやすいですが、ろう者も一人ひとり考え方が違うのは当然のことです。同じ事柄に対して、Aさんは賛成だけどBさんは反対ということもあります。聴覚障がい者を一括りにして見ていないか、自分の中にある聴覚障がいのイメージと、この本に描かれているろう者のイメージがどれくらい違うか意識して読んでもらえたらと思います。また、SNSやYouTubeで発信している当事者もいるので、漫画をきっかけに当事者の発信にも関心を向けてもらえたら嬉しいです。
インタビュー前編:「聴覚障がい者」への思い込みが変わる漫画『僕らには僕らの言葉がある』作者が語る、無意識の偏見
【プロフィール】詠里(えいり)
兵庫県生まれ。甲子園球場を身近な野球場として育つ。2017年、硬式野球に打ち込む女子高生を描いた『フジマルッ!』でデビュー。ほかにも、草野球に突如降臨したスーパー野球女子を描く『松井さんはスーパー・ルーキー』など、主に野球をテーマにマンガを執筆。
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