専門家と考える【根強い障がい者への偏見】インクルーシブな教育・社会実現のために必要なこととは?

 専門家と考える【根強い障がい者への偏見】インクルーシブな教育・社会実現のために必要なこととは?
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まだ語られることが少ない「障がい者の性」。元特別支援学校教諭で、現在は筑波大学大学院博士後期課程にて「知的障害児・者の『性の権利』尊重のための教育および支援に関する研究」に取り組む門下祐子さんに、前編では具体的な事例を交えながら、障がい児への性教育について伺いました。後編ではきょうだい児の性被害、社会の偏見・差別、インクルーシブ教育について伺います。

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「仕方ない」とされてきたきょうだい児の性被害

——きょうだい児(障がいのある子のきょうだい)がきょうだいからの性被害の経験を語ることもあります。私自身も知的障がいのある弟にサニタリーボックスや下着をチェックされたり、スカートの中をのぞかれたりと、嫌な思いをしました。されたことだけでなくて、親の「仕方ないでしょ」という言葉や空気感もつらかったのですが、一方で親もどうしたらいいのかわからなかったんだろうとも思いまして……。

きょうだい児の中には、日常的にいろいろなことを我慢したり、納得できなかったりする経験をもつ方もいます。中でも、性に関する被害経験は人としての尊厳が傷つけられるものです。それでも仕方のないこととされてきたのは、きょうだい児の方々も弱い立場に置かれているためだと思います。

家庭内での性的で嫌な経験は、口に出すことができないきょうだい児もいることと思います。きょうだい児支援が広がってきていますが、つらい経験を一人で抱え込まないための場を社会が整備することも重要です。

本来ならば、きょうだい児の「NO」も尊重されるべきです。では、保護者にとってなぜ難しかったかと言えば、社会に長らく「性」を「汚いもの」とする風潮やタブー視があり、どう教えればいいかという情報を得ることが難しい上、とても家族内で話し合ったり、家族以外の誰かに相談したりする雰囲気ではなかったのではないかと思います。

前編でも話題にしましたが、学校などで性に関する学びの場や、きょうだい児の思いを話して受け止めてもらえるような環境があれば、きょうだい児に我慢を強いる状況は改善できる可能性がありますし、家庭だけに背負わせずに済みます。

——実際にきょうだい児が嫌な思いをする出来事が起きてしまった場合、親はどういう対応ができますか。

まずはきょうだい児の「嫌だった」という思いを受け止めることが大切です。「我慢しなさい」と押さえ込んだり、なかったことにしない。その上で、起こった出来事に「何らかのサインがあるかもしれない」と客観的に把握して、思い込みで対応しないことが大切です。

前提として誰もが性的な存在ですので、重度の障がいがあっても「性的な関心があるかもしれない」という視点をもつこと。その際、「いやらしい」「汚らしい」とタブー視しないこと。一方で「必ずしも性的な好奇心からの行動とは限らない」という視点ももつことが重要になってきます。

たとえばサニタリーボックスや下着を見る行為も、単純に自分は使わないけれども何が入っているか気になるとか、自分が使う下着とは違う形だから気になるといった、疑問から生じる行動である場合もあります。

月経の手当てなどについて、学校で女子だけ別室に集められて学び、男子は何も教えられていないことはまだまだあることです。知らないがゆえに、単純に興味本位で行動しているだけかもしれません。また、からだの大切さやそれを守る下着の大切さなどが教えられていないので、勝手に見たり触ったりする行為で相手がどう思うかも知らないままです。

とはいえ、された側が嫌な思いをしているのは事実ですので、そのことを伝える必要はあります。具体的な声かけは「同意」の視点がポイントで「あなたが興味があっても、相手が嫌だって言ってたらやっちゃだめなんだよ」という方法があります。もちろん、視覚的にイラストや文字で示すなど、その人にとってわかりやすい伝え方を工夫する必要があるでしょう。
いずれにせよ、家族が安心して生活していけるような生活環境の調整が重要です。家族内だけでは解決困難な事例は多々ありますので、遠慮せずに支援機関に相談していただきたいです。

“障がい者”ではなく「○○さん」として関わる

——大声を出して泣き叫んだり、自分の頭を壁にぶつけたりする「癇癪(かんしゃく)」を怖いと感じる声も聞きます。身内に障がい者のいる私でも、自分より体の大きな人が近くで癇癪を起こしていたら怖いと思うので、知らなかったり接した経験がなかったりすれば尚更そうだと思います。どのように理解していけばよいでしょうか。

背景に、何かが嫌だとか、不快だとか、ここにいたくないとか……何か伝えたい思いがあるけれども上手く伝えられなくてそうなっている場合があります。したがって、「癇癪=伝えたい思いがある、パニックになっている状態」と捉えていただくと見方が変わってくると思います。

日本が2014年に批准した障害者権利条約には、障がいのある子とない子が共に学び、必要な合理的配慮が提供される「インクルーシブ教育システム」の必要性について明示されていますが、先日、国連から勧告を受けたように現状は障がいのある子どもたちが分離されていると言わざるをえません。そのため、障がいのある子どもたちと対等に関わる機会が得られず、身近な存在ではないことがあるので、どんな特性があるかも知らないですし、なんとなく「大変そう」「かわいそう」「怖い」といったイメージを持ってしまいやすいです。

時間を共にする機会がないことで、「互いを知ろう」とするモチベーションも生まれづらい。「差別はしてはいけない」と教わっていても、結局は排除が正当化されている構造の中にいて、彼らが「ないもの」とされていることに危機感を覚えています。

——時間を共にすることでどのような変化がありますか。

学校や地域などで共に生きると、互いを知っていくうちに「○○さんはこれが好き」「○○さんはこういう音が苦手だからパニックになってる」など“障がい者”ではなく「○○さんのこと」という見方ができるようになります。
加えて、「障害の社会モデル」の話も必要です。障がいは本人にあるものではなくて、本人と社会の間に障壁がある。このことは、学校教育や社会教育を通じて学ぶ重要性の高いものだと思います。

また障がいの特性を知ることで、たとえば知的障がいのある人が電車で落ち着かない様子だったり声を出したりするのを見ても、「なんか怖い」という見方ではなく「決まった席に座れなかったのかな」「多動の特性なのかもしれない」など、その背景に思いをはせることができるようになると考えます。

——現状、身近で接していなければ特性を知る機会もないと思います。特性を知るためにはどうすればいいでしょうか。

現状、書籍やWEB上である程度、「この障がいはこういった特性がある」という情報は入手しやすくなっていますし、自ら研修会等に参加して学ぶ方も少なくありません。しかし、人々の自助努力に任せるのでなく、先程述べたように障がいのある人が「ないもの」とされている構造の変革が重要です。

したがって、初めから「分離ありき」ではなく、障がいのある子どもたちも含めて多様な子どもたちが「共に学ぶ」ことを考え、一人ひとりが自己実現をしていくためにどんな教育があったほうがいいのか議論すべきです。

分離の構造は簡単には変えられないと思われるかもしれませんが、既存の枠組みにとらわれず、それぞれの立場から意見を述べたり、「対話」を重ねていったり、その過程こそが重要だと考えます。

昨年度、大学で学生らに「特権」についての講義を行いました。障がいのない人たちは障がいの有無という軸において「特権」を持っています。ここでいう「特権」とは、あるマジョリティ側の社会集団に属していることで、特に苦労することなく得る優位性(※)のことです。

※参照:出口真紀子(2021)「みえない『特権』を可視化するダイバーシティ教育とは?」岩渕功一[編著]多様性との対話.

たとえば自分の言いたいことが思うように伝えられるとか、障壁なく自分で自由に行動できることなどです。学生たちは講義を通して、「障がい」への見方のみならず、構造的な課題についても関心を持ち始めていました。

——国内で先進的なインクルーシブ教育の実践はありますか。

大阪府豊中市では「ともに学ぶ」を掲げ、1970年代から地域の子どもは地域の学校で受け入れる体制をとり、医療ケアが必要だったり知的障がいがあったりする子も通常学級に通っています。

また大阪府立松原高校は1978年から障がいのある生徒も通学しています。トップダウンで始まったことではなく、地元の中学生らが仲間と同じ学校へ進学したいという思いから署名運動を行ったことで実現しました。当初は「準高生」という形で交流を行い、2006年度からは自立支援コースが開設されています。クラスに所属し、サポートを受けながら授業や特別活動を一緒に行う形式です。

誰もに「性」の学びを保障することの大切さ

——障がい者の他害行為は、メディアにも取り上げられやすいところですが、どのように捉えればよいでしょうか。性犯罪について特有の課題などはありますか。

まず前提として、被害者は保護され必要なケアが保障されるべきです。その上で、「加害をした障がい者に責任を問う」と考えるときに、インクルーシブでない社会システムや誰もに「性」の学びが保障されていない現状についても問う必要があるのではないか——つまり「社会の責任」を十分に果たしていないのではないか、と考える視点も重要だと考えます。

特に性に関することは授業等で教わる機会がないうえに、質問してもタブー視されて教えてもらえなかったり、交際やセックスなど全て禁止する指導があれば、正しい知識を得る機会は持てません。現代は気軽にアダルトサイト等にアクセスできるので、「セックスってなんだろう」と思ったとき、学校でも教わらないし、大人に聞いたら怒られるのであれば、自分で検索して調べるのは当然です。

ただし、教員が答えられない背景の一つに学習指導要領の「歯止め規定」の存在がありますし、教員養成課程で性教育が必修ではないこともあり、性教育実践に苦手意識をもつ教員も少なくありません。

そういった中で痴漢や幼児虐待などのアダルトコンテンツが出てきてしまえば、誤った知識をインプットしてしまう可能性もあります。もちろん、それらを見ていたとしても本人と保護者、学校などが連携しながら適切な教育を受けることができたり、彼ら自身が尊重される環境にいたりすれば、加害者にはならない。むしろ、前編で述べた性器を持つことができない男子のように、良くも悪くも教えられた規則を厳格に守る人もいます。

つまり、犯罪になる前に誰もに「性」の学びを保障することや、排除されないなど、「社会ができることはなかったのか?」と考える視点も大切だと思います。

加えて、特に知的障がいのある男性に対して「加害者にならないように/見られないように」と普段から抑圧的な指導が行われている事例や、知的障がい女性に対しては「被害にあわないように」と保護的/抑制的な関わりをされている事例もあります。周囲が過度に恐れることで、本人に不利益が生じている場合もあることを知っていただきたいです。

誰もが互いの権利を尊重し合える社会へ

——今回お話を伺って、社会で障がい者の「性」に限らず、障がい者そのものが狭く捉えられてしまいがちな問題があると感じました。

「障がい者の性」といったテーマですと、メディアで取り上げられるのは性被害や性加害行為、あるいはセックスワークに絡めた内容が多いと感じます。ゆえに世間では「障がい者の性」と聞いたときに見方が狭くなってしまうのはやむを得ないと思うものの、「狭義の性」ばかり取り上げられてしまうと、危険視や“かわいそうな人”といった見方が強くなってしまうと危惧しています。

私はこれまでも今も、恋愛に悩んだり、気持ちいいことをしたいと思ったり、人間関係を広げたいと思ったりする障がいのある人たちの姿を見ています。その姿は決して「障がい者」でひとくくりにできるものではありません。

関わることがなければ、互いを知らなければ、さまざまな思い込みから離れることが難しいのではないかと思います。なので、どんな人も排除せずに包摂される社会システムについて議論していく必要があると思います。

繰り返しになりますが、障がいのある人も一人ひとりが性的な存在であり、それぞれの幸せを求めて生きているわけです。障がいがあるからといってその権利が奪われることなく、自分の権利も他者の権利も尊重し合える社会を構築していくことが、目指すべき方向ではないでしょうか。

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【プロフィール】

門下祐子さん
門下祐子さん(ご本人提供)

門下祐子(かどした・ゆうこ)

筑波大学大学院人間総合科学学術院博士後期課程。東洋大学福祉社会開発研究センター客員研究員。津田塾大学非常勤講師。2022年度津田塾大学「優良教育賞」受賞。一般社団法人“人間と性”教育研究協議会幹事。一般社団法人スローコミュニケーションで賛助会員向けのコラムを連載中。知的障がいのある本人にもわかりやすい「性」に関する書籍を近日刊行予定。

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雪代すみれ

雪代すみれ

フリーライター。企画・取材・執筆をしています。関心のあるジャンルは、ジェンダー/フェミニズム/女性のキャリアなど。趣味はヘルシオホットクックでの自炊。



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