糖質制限も過食も"禁じられているから"手を出したくなる?|文化人類学者・磯野真穂さんに聞く

糖質制限も過食も"禁じられているから"手を出したくなる?|文化人類学者・磯野真穂さんに聞く

吉野なお
吉野なお
2022-12-10

プラスサイズモデルであり、ボディポジティブのアクティビストとしても活動する吉野なおさん。今回彼女がインタビューしたのは、文化人類学者で『ダイエット幻想』(ちくまプリマー新書)の著者でもある磯野真穂さんです。食べること・太ること、さらにはダイエットや摂食障害について、文化人類学ではどのように考えているのか、聞いてみました。前編・中編・後編と3部に分けてご紹介します。

*この記事は、「文化人類学者・磯野真穂さんへのインタビュー中編です。前編は「文化人類学者・磯野真穂さんに聞く「太ること・痩せること」の意味」からお読みいただけます。

過食行為は時空間反転スイッチ?

――ヨガでうまく瞑想できたときは、すごくリフレッシュできて、遠くへ行ってきたような気分になるんです。ヨガは「やっていいこと」ですが、人類って、お祭りとか儀式とかを通して非日常的な、普段はやってはいけないことを、やることがありますよね。私たちはそうやって日常と非日常を行ったり来たりすることがあると思いますが、これって一体何なのでしょうか?なぜこういう儀式が世界のどこにでもあるのでしょうか?

磯野:たしかにどこの社会でも大体ありますね。寝ることが切り替えになるように、儀式も集団にとっての切り替えです。また儀式って、なおさんが言ったように、普段やっていることをひっくり返すことが多い。触ってはいけないものを触ったり、着物の重ね方を変えたりとか、普段の経験と全く違う振る舞いをすることによって暮らしに折り目をつけ、日常と非日常を行ったり来たりする。その意味で儀式は、日常を活性化させるためにあると表現されることもあります。寝ないでずっと起きていると日常がどんよりしてきますよね。でも寝ると活性化する。それと良く似ています。非日常は日常のためにある。

そういう意味では、ヨガの瞑想も小さい儀式と言えるかもしれません。普段の速く進みがちなペースから落とすとか、いろいろなところに注意を引っ張られる状態から、あえてそうじゃないルーティンの中に持っていくことは、日常に活力を与える儀式と言えるでしょう。

――今のお話を聞いていて思い出したのですが、先ほどご紹介した磯野さんの著書『なぜふつうに食べられないのか 拒食と過食の文化人類学』の中で、「過食行為は時空間反転スイッチなのでは?」という指摘をしていましたよね。過食は普段食べてはいけないものを食べる非日常行為で、日常を切り替えるためのスイッチを入れることになる。でも罪悪感があったり、帳消し行為をしたりして途中でやめてしまう。だから日常がポジティブに活性化しないのかなって思いました。

磯野:私は過食行為が、病気ではなく社会的に受け入れられたら、日常を活性化しうる儀式になるのではと考えています。実際、インタビューした皆さんが、過食嘔吐にそのような側面があることを口にしていました。だけど、過食嘔吐は病気として認識されていて、社会的に許容されておらず、治さなければいけないものだから、やっている本人は行為自体に強い罪悪感と自責感を覚えてしまう。ここがお祭りと異なるところです。

――以前、SNSで何気ない一言を募集したときに、「いま過食しすぎて罪悪感でいっぱいです」っていう人もいれば、「岩手でわんこそばを数十杯食べました!新記録!」ってポジティブに語る人もいて、食べる量ではなくて捉え方次第なんだなって思いました。自分が許容しているかしていないかだと感じたことがあります。

磯野:ある種、やけ食いは許容されてるんですよね。やけ食いはしばしば起こる非日常的な食べ方として許容されているからストレス解消行為になる。でも、病気の症状とされている過食の場合、それをしてしまった自分が苦しくなって、もっと過食になるという負のスパイラルに陥ってしまいます。ただ、さっきお話ししたことと逆のことを言ってしまいますが、もし過食行為が社会的に許容されていたら、それをやらない人も一定数いるような気もします。人間は、やってはいけないと言われると、あえてそれをやりたくなる欲望を持つ生き物でもあるので。

――「やってはいけないこと」をやらなかった民族っているのでしょうか?

磯野:これは直接答えるのが難しい質問ですが、「やってはいけない」「入ってはいけない」という境界を作ると、そこが聖域化されます。例えば神社に行って、縄で囲われた置き石があったら、それだけでその石が聖なるもの(近づいてはいけないもの)に見えたりする。でもそうなると余計にその石に触ってみたくもなるのです。また「危ないもの」と「聖なるもの」は実は距離が近い。例えば、「鶴の恩返し」では、主人公が「扉を開けではいけない」と言われますよね。扉の先は聖なる空間です。でもだからこそ開けてみたい。そして本当に開けてしまう。その結果、鶴はいなくなってしまいます。

その上で質問に答えると、「〜をやると危ないことが起こる」として「聖なる領域」を作り、でもそれをなんらかの方法で破りにかかるのが人間です。変な生き物です。

――日本の昔話でもよくありますよね。浦島太郎でも開けてはいけない玉手箱を持たされて。じゃあなぜ土産に持たせたのかってなるのですが(笑)

磯野:心理学でも分析の対象になっているのですが「見るなの禁忌」というものがあります。糖質制限は食べ物界の「見るなの禁忌」の典型と言えるでしょう。甘い物がいっぱいあってもそれに触れてはならない。そうすると糖質がすごく特別なものに見えてくるんです。「見るなの禁忌」が人間の経験を変えてしまう。

――「食べちゃダメ」と言われると食べたくなりますが、「いくらでも食べていいですよ」っていう食べ放題に行っても、結局それほど食べられないですよね。

磯野:まさに(笑)。食べるのって結構難しいんですよ。そのうち食糧危機が来て、ふんだんに食べ物があるということ自体がなくなっていくかもしれませんが、食べるものが常に身近にあるだけでなく、あれは体にいい、これは体に良くないという情報が溢れかえっている。だからますます何を食べたらいいのか、自分は何を食べたいのかがわからなくなってしまう。最近、健康的な食べ物に過剰にこだわってしまう人たちのことを「オルトレキシア」と呼ぶそうですが、そういう人が一定数出るのも頷けます。

――本当に自分でその食べ物を選んでいるのかわからないですよね。

磯野:相手も選ばせようとしてきますから。誰の欲望のために生きてるのか分からなくなりますね。食欲は誰の欲望なんでしょう。もちろん自分がお腹がすいたっていうのはあるけど、周りが食欲を喚起してくることもよくあるし、食欲を喚起されることはよくないんだ、というメッセージもあるので混乱しますよね。

*インタビュー後編「『あたりまえ』と『ありえない』が混在する世界に生きる私たちができること」に続きます!

お話を聞いたのは…磯野真穂さん
人類学者(専門領域は、文化人類学と医療人類学)。早稲田大学人間科学部スポーツ科学科を卒業後、アスレチックトレーナーの資格を取るべく、オレゴン州立大学スポーツ科学部に学士編入するも、自然科学の人間へのアプローチに違和感を感じ、同大学にて文化人類学に専攻を変更。シンガポールと日本で摂食障害のフィールドワークを行い、応用人類学修士号、早稲田大学にて博士(文学)を取得。その後、早稲田大学文化構想学部助教、国際医療福祉大学大学院准教授を経て2020年より独立。著書に『なぜふつうに食べられないのか: 拒食と過食の文化人類学』(春秋社)、『ダイエット幻想 やせること、愛されること』(ちくまプリマー新書)他。

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吉野なお

吉野なお

プラスサイズモデル。雑誌『ラ・ファーファ(発行:文友舎)』などでモデル活動をしながら、摂食障害の経験をもとに講演活動やワークショップなども行っている。

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