「ずっと自己肯定感が低かった」元祖アフリカ系スーパーモデル・イマンが伝えたい「本当の美しさ」
故デイヴィッド・ボウイーの妻、元祖セレブビューティブランド「IMAN」のファウンダー、そして黒人スーパーモデルの先駆けなど、様々な顔を持つモデルのイマン。自らもSNSを駆使し、様々なメッセージを発信している彼女が、現代を生きる若い人たちに送りたい言葉とは。
「ビューティにルーティンなんて存在しません。もしルールがあるとしても、それは簡単に破られるものですし、今年の傾向がまた来年にも生きるとは限らない。それに、現在はかつてないスピードで化粧品テクノロジーも進化していますから、以前では考えられなかった高機能の化粧品が市場に溢れています。同時に、美容整形の技術も発達していますが、私自身それを受けることには懐疑的ですし、現時点で必要だとも思っていません」。
米美容メディアにこう語ったのは、元祖アフリカ系スーパーモデルのイマンだ。
“イマン”ことザラ・モハメッド・アブドゥルマジドは、1955年7月に産婦人科医の母マリアムと、元在サウジアラビア・ソマリア大使の父モハメッドの間にソマリアのモガディシュで生まれた。4歳の時からエジプトのボーディングスクールに学び、思春期のほとんどを彼の地で過ごした彼女は、その後ケニアのナイロビ大学で政治学を学んだ。
彼女がモデルとしてのキャリアをスタートしたのは、ナイロビ大学在学中だった。当時の人気アメリカ人フォトグラファーのピーター・ビアードによりモデルとしての天性の才能を発掘され、彼の勧めでそのままアメリカへ移り住むと、瞬く間に「VOGUE」等のファッションメディアで引っ張りだこの存在となった。
その細く繊細な首筋、スラリとしたエレガントな佇まい、褐色の艶やかな肌、そして美しい顔立ちは、数多のデザイナーを魅了し、ジャンニ・ヴェルサーチやホルストン、イヴ・サンローランらのミューズとしてモード界にインスピレーションを与え続けた。
プライベートでは、18歳の時にソマリア人実業家と最初の結婚・離婚を経て、俳優のウォーレン・ビーティらと交際。その後バスケットボール選手のスペンサー・ヘイウッドと結婚後一人娘のズレカを設け、1978年に離婚。そして1992年にミュージシャンの故デイヴィッド・ボウイーと再婚し、2000年に娘のアレクサンドリア・ザラ・ジョーンズが生まれた。
化粧品ブランド「IMAN」の成功
そんな彼女が化粧品ビジネスに参入したのが1994年。自らの名を冠したブランド「IMAN」は、スタートと同時に好調なセールスを記録した。その理由は、当時としては画期的な有色人種向けの豊富なカラーバリエーションだった。
「これまでずっと私は自分の肌のトーンにぴったりなシェードを見つけるのが困難でしたし、そんな状況に辟易していました。だから、自分でブランドを立ち上げようと思ったのです。特にファンデーションには、私のモデルとしての経験が生かされていて、「カバークリーム」というアイテムは、私のような黒人の肌のために作ったものです。オイルを配合していないため、マットな仕上がりになるから、フィニシングパウダーも入りません。出掛ける時には欠かせません」。
同時に、彼女は黒人向けのスキンケアへの誤解—特にUVカット製品に関する誤った理解が蔓延していることも指摘する。
「黒人にはUVカットは必要ないと思っている人が多いようですが、実はSPF値というのは全ての美肌にとってのキーファクター。だから黒人のスキンケアにも、UVケア製品は必須アイテムなのです」。
一方で、プライベートでは撮影の時以外はメイクをしないという彼女は、娘たちにスキンケアとメイクアップの独自のルールを課してきたという。
「あまり若い年齢でメイクをすることを禁じてきました。『週末だけならいいけど、学校にはメイクをして行ってはダメ。一体誰がそんな顔みるというの?』と。だから喧嘩もしょっちゅうでした(笑)。とは言え、スキンケアは別です。やはりニキビができ始める思春期にはきちんとしたケアの重要性をしっかり教えてきたつもりです」。
米モデル界で直面したカルチャーショック
ピーター・ビアードの勧めで渡米後、モデルとしてのキャリアをスタートしたイマン。だがほどなくして彼女は大きなカルチャーショックに直面したという。それは、当時のアメリカのアフリカ系モデルたちに比べ、同じ黒人モデルであった自身が、少し違う扱いを受けていたことだ。
「新聞の見出しで私のことを“黒人モデル”と表現していたのを見て、違和感を覚えていました。ソマリアでもケニアでも、アフリカでは“黒人”とわざわざ呼ばれることはなかったからです。もっとも、アフリカの大多数は黒人ですが(笑)。にも関わらず、私はアメリカでは他の黒人モデルとも違う、何か特別な扱いをされていたのです。もしかしたら私の父が外交官であったことや、私自身が外国人だったことが関係しているのかもしれません。いずれにせよ、未だに理由はわかりませんが、当時の私は外国人という“お客様”として扱われているのだと思うようにしていました」。
こと人種問題となると、アメリカという国は外国人には“あたり”が優しいのかもしれないー当時はそう思い込んでいたと振り返るイマン。しかし、当時のアフリカ系アメリカ人トップモデルのビヴァリー・ジョンソンも、東欧系の白人モデルたちも、彼女同様に特別扱いされていたことから、“ある傾向”に気がつき、次第に居心地の悪さを感じるようになったという。それは、ビヴァリーはさておき、特に東欧など外国出身のモデルたちが、アメリカでは“特別な美しさ”としてみなされているということ。そして自分も、その一人に見られているーーそんな周囲から向けられる眼だった。
「私は、アメリカでは“美人大国”として知られるソマリアの出身です。でも、高校のプロムでは、私を誘ってくれる男の子は一人もいないどころか、父がいとこにお小遣いをあげて私を誘うよう仕向けたほどでした(笑)。私は、母国ソマリアでは美人ではありませんでした。本当に。この事実は今でも変わりません」。
そして、“特別”扱いを受け続けるうちに、彼女は子供の頃からずっと抱いてきた自己肯定感の低さに心が支配されるようになったという。
「私は、母国では理想の美人ではありませんでした。だから子供の頃から自己肯定感がとても低かったのです。モデルを始めた時も自分が嫌で仕方がありませんでしたし、モデルなんてやってて良いのだろうかと何度も思いました。だからそう見えないように自信たっぷりの態度を見せていたのですが、いまでもそれは変わりません。何しろシンディ・クロフォードのように、上には上のモデルがいるのですから(笑)」。
しかし、当時に比べインスタグラムなどSNSが社会に浸透したことで、多様な美を発信し受け入れることが可能になった現在は、そんな自分ともようやく折り合いがつけられるようになったと言う。
「ずいぶん時間がかかってしまいましたが、年齢を重ねるとともに自分自身のありのままを受け入れることができるようになりました。それにあの頃に比べると時代も劇的に変化していて、メディアだけが一握りの人たちを輝かせる場所ではなくなりました。私も使っているインスタグラムなどのSNS上には、様々な個性と美しさが溢れています。ですがそれらは誰かと比べることもなく、誰かみたいになろうとせず、ただ自分だけの個性を輝かせるためのツールだと思っています。その時その時の美しさを、その時代なりの輝きを放つことこそが重要であり、本当の美しさなのだと思います」。
AUTHOR
横山正美
ビューティエディター/ライター/翻訳。「流行通信」の美容編集を経てフリーに。外資系化粧品会社の翻訳を手がける傍ら、「VOGUE JAPAN」等でビューティー記事や海外セレブリティの社会問題への取り組みに関するインタビュー記事等を執筆中。
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