ルッキズム(外見に基づく差別)をやっつけるための女性たちの格闘

 ルッキズム(外見に基づく差別)をやっつけるための女性たちの格闘
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エコーチェンバー現象や排外主義の台頭により、視野狭窄になりがちな今、広い視野で世界を見るにはーー。フェミニズムやジェンダーについて取材してきた原宿なつきさんが、今気になる本と共に注目するキーワードをピックアップし紐解いていく。

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ルッキズムとは、外見に基づく差別のことだ。外見至上主義、と訳されることもある。たとえば、「男性のくせにメイクをするなんて」という声もルッキズムだし、海外の企業で、「アジア人(移民)らしき外見の人は採用しない」と判断することもルッキズムだ。

ルッキズムを内面化することで、自分自身を傷つけてしまうケースもある。摂食障害がそのひとつだ。『そのカワイイは誰のため? ルッキズムをやっつけたくてスリランカで起業した話』(イカロス出版)の著者、前川裕奈も、かつて摂食障害に苦しんだ女性だ。

海外に出たことで日本のビューティー・スタンダードの呪いから自由になる

前川は、幼少期をヨーロッパで過ごし、日本の小学校に転入した。それまでは自分の体型についてなんの違和感も抱いていなかった前川だが、転入早々、「デブスパッツ」(スパッツを履いていたため)というあだ名をつけられてしまう。

ショックを受けた前川は、その後、学生時代に過度なダイエットをしたり、食べたものを吐いたり、そうかと思うと過食がやめられなくなってしまうという苦しい時期を過ごす。そんな前川は、アメリカに留学したことをきっかけに、ビューティー・スタンダードは国によって異なることを身に染みて痛感する。そして、痩せていたとしても、自信がない状態では魅力的だとは言えない、ということにも気が付いた。

前川は、大学卒業後、不動産会社勤務を経て大学院に進学し、のちに国際協力の仕事に就いた。国際協力の仕事で赴いたスリランカの地で、やせ信仰に囚われていない魅力的な女性たちに出会った。そして、スリランカの女性たちとともに、日本の女性たちをビューティー・スタンダードの呪いから解放するフィットネス・ウェアブランド「kelluna.」の起業にこぎつけるのだった。

前川は、本書のなかで、「セルフ・ラブの大切さ」「人の評価ではなく、自分のために運動を楽しむこと」「ビューティー・スタンダードに合わせる必要はないこと」を繰り返し述べている。前川は、日本を出たことで、日本のビューティー・スタンダードから自由になり、自分を愛せるようになり、囚われていたやせ信仰から自由になれたのだ。

女性だけに強いられる着飾り労働のストライキ・脱コルセット運動

前川は、美しくなりたいと思う際には「社会や他人の評価ではなく、自分のために行動することが大切」だと言う。大賛成だが、どこからどこまでが他人の評価で、どこからが自分の本当の望みなのかを区別することはとても難しい。

たとえば「肌を美しくみせたいからファンデーションを塗る」という行為が、完全に自分のものかと問われればどうだろう。現状、ほとんどの男性はファンデーションを塗っていない。男性は肌を綺麗に見せたくないのか? 女性だけが生まれつき肌を綺麗に見せたい生き物……というわけではないだろう。髪の毛をサラサラにしたいからストレートパーマをかける行為だって、生まれた瞬間から「癖っ毛よりサラサラが素敵だと思っていた」とは想定しがたい。メイクやパーマは強制されているわけではない。自分がしたいから、しているはずだ。しかし、完全な自由意志とも言えない。社会が強要する欲望と自分自身の欲望は絡まりあい、完全に区別することは困難だ。

とくに女性には、外見に注意を払い、着飾ることが、社会的に求められている。すっぴんであることは男性にとってデフォルトだが、女性にとっては、恥ずかしいことだったりもするほどだ。

そういった非対称に目を向け、女性に向けられた着飾りへのプレッシャーに屈しないための運動が、脱コルセット運動だ。脱コルセット運動とは、韓国の10代~20代の若い女性を中心にした、着飾らない(ノーメイク、短髪など)ことを選択する運動のことだ。

脱コルセット運動の実践者たちは、着飾らないという選択をすることで、どこからどこまでが社会に押し付けられてきたものだったのかを自分の身体を使って体感し、自分らしさ、快適さを模索しているのだ。

脱コルセットをした女性たちが、「女性らしくない」「女性のくせに身なりに気を使っていない」と差別されたり揶揄されたりケースは珍しくない。女性が髪を伸ばさなかったり化粧をしなかったりしただけでルッキズムにさらされる現象そのものが、そういった着飾りが社会的圧力と強固に結びついていることの、なによりの証左だろう。

「どんな私も美しい」より「美しくないままで幸せ」

ルッキズムに対抗する方法は、人によって異なる。外見をバカにされたことをきっかけに美しくなろうとする人もいれば、別の美の基準を探す人もいる。美しく着飾ることを拒否する人もいれば、なめられないためにゴリゴリに化粧をして爪を伸ばし、髪をブリーチして「強めのルックス」を作り上げる人もいる。

そしてそうすることでさらならルッキズムに晒されることもある……ルッキズムには終わりがないようにも思われるが、ひとつ、希望がある。ルッキズムという言葉の認知度が、ここ数年で各段に上ったことだ。外見による差別はあらゆる場所にある。しかし、いままでそれは当たり前のこととして見過ごされていた。ルッキズムという言葉が広まったことで、外見で人をジャッジしてはならない、という共通認識も広まりつつあるように思う。

ルッキズムは社会問題であり、個人の力でどうにかできる問題ではないし、自分の内面を変えることでルッキズムに打ち勝とうとするのは限界がある。近年は、「多様な美の形を認めよう」という動きも盛んだが、「どんなあなたも美しい」は、「美しくなければならない」とニアリーイコールにも思える。女性が美しくないままで存在しても、誰からもジャッジされず、幸せに生きられる社会は、まだ到来していない。そんな社会がやってくるまで、女性たちは、鏡の前で多くの時間を過ごさなければならないだろう。

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AUTHOR

原宿なつき

原宿なつき

関西出身の文化系ライター。「wezzy」にてブックレビュー連載中。



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