「教師と少女との禁断の愛」という欺瞞を打ち砕く物語『ダーク・ヴァネッサ』【レビュー】

 「教師と少女との禁断の愛」という欺瞞を打ち砕く物語『ダーク・ヴァネッサ』【レビュー】
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エコーチェンバー現象や排外主義の台頭により、視野狭窄になりがちな今、広い視野で世界を見るにはーー。フェミニズムやジェンダーについて取材してきた原宿なつきさんが、今気になる本と共に注目するキーワードをピックアップし紐解いていく。今回は、『ダーク・ヴァネッサ(上・下)』を取り上げる。

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教師と少女との恋愛は、繰り返し描かれるモチーフだ。人気者の先生に特別に目をかけられるのは、平凡な少女にとって、自分が特別な存在だと思えたり、大人になったと感じられたりする出来事になり得る。

少女漫画や映画やドラマで、先生と恋仲になる生徒の存在は繰り返し描かれ、美化されている。美しい物語のなかでは、大人と子どもの間に存在する権力関係はないことにされる。

権力関係がないのだから、当然、「グルーミング」もないことになる。グルーミングとは、大人が子どもに性的な行為目的で近づき、信頼や尊敬を獲得し、心を開かせて、「この大人と性的関係になったのは自分が望んだことなのだ(恋愛なのだ)」と思い込ませる行為を指す。

子どもを性的対象として狙う大人の多くは、グルーミングできる対象を選別し、見極める。グルーミングのためには、相手の孤独につけ込むのがいい。そのため、孤立している子どもは、捕食者のターゲットになりやすいのだ。

『ダーク・ヴァネッサ(上・下)』(ケイト・エリザベス・ラッセル著 中谷友紀子訳 河出文庫)の主人公ヴァネッサも、親友と喧嘩別れし、孤独を感じている寮暮らしの少女だった。本書は、42歳の教師ストレインと「恋に落ち」た、15歳のヴァネッサの物語だ。

ダーク・ヴァネッサ
『ダーク・ヴァネッサ(上・下)』(ケイト・エリザベス・ラッセル著 中谷友紀子訳 河出文庫)

15歳の「わたし」の恋人だった先生は、17年後、性的虐待で告発された

15歳のヴァネッサ・ワイは、42歳の教師ストレインと出会った。「心の暗い部分をさらけ出せるのは君だけだ」とストレインは言い、「神童のような文才がある」とヴァネッサを褒めちぎった。

ヴァネッサは、ストレインが「若さではなく、中身を愛してくれている」と思い込んだ。

ストレインは同年代の男子のように性急ではなかった。「決めるのは君だよ、ヴァネッサ。君次第なんだ」とヴァネッサにすべての判断を委ねているかのような言葉を繰り返した。近づいてきたのはストレインの方からだったが、ストレインの話術によって、いつのまにか、ヴァネッサの方から近づいた、という物語に書き換えられていった。

実際、一度関係が始まってしまえば、ヴァネッサはストレインを強く求めるようになった。

しかし、ヴァネッサがストレインと関係を持った17年後、ストレインが性的虐待で告発される。被害を訴えた生徒は5名全員が、被害にあったときは未成年だったと主張している。報道を伝える記事には、ストレインが教え子たちに対してグルーミングを行なった、と書かれていた。

ヴァネッサの人生には、少女のころの先生との関係が、あらゆる面で影を落としていた。

30代になったヴァネッサは、ストレインと未だに連絡を取り続けていた。ストレインと別れた後に付き合っていた恋人もいた。彼には「加害者と連絡を取り続けているなんて不健康だ。セラピーに通った方がいい」と言われたが、ヴァネッサは自分の身に起きた出来事を「性的虐待」だとは思えずにいた。そのため、セラピーは必要ないと考え、次第に恋人とはすれ違い、関係は終わりを告げた。

ヴァネッサは精神的に落ち着かず、アルコールと薬でごまかしながらなんとか生活しているものの、仕事に対する情熱は持てずにいた。学生時代、大学院への進学を一度は検討したものの、大学院を勧めてくれた大学の教師からも、性的眼差しを感じたため、進学を諦めた。

30代になったヴァネッサのもとには、性的虐待を報道した記者からたびたび連絡がきた。被害者たちと連帯して声を挙げてほしい、という要請だ。

しかしヴァネッサは、被害者としての声を決して挙げない。ヴァネッサは、肉親の死をきっかけにセラピーに通い、そこで、ストレインのことを打ち明けた。

ヴァネッサは言う、「これはラブストーリーじゃないといけないの。わかる? 本当に、本当にそうじゃないと困る。だって、そうじゃなかったら、なんだっていうの?」。

性加害ではなく、ラブストーリーであってほしい、という願い

禁断の愛のヒロインか、少女を捕食する狡猾な男に利用された被害者か、どちらかになることを選ばなければならない場合、後者を選ぶのは難しい。

あらゆる証拠が揃い、告発者が出揃ったとしても、あれはラブストーリーだったのだと思い込まなければ、心を守れないこともあるのだということを、本書は痛々しいほどリアルに描く。

近年、日本の映画界や演劇界で、ハラスメントの告発が相次いでいる。演劇界では名の通った劇団の主催者である40代の演出家が、ワークショップに参加した俳優を稽古場兼自宅に招き、強制的に避妊なしの性行為に及んだという告発もあった。告発者の女性は、性的関係を強要された翌日、演出家に「付き合ってほしい」と告白したという。被害者が混乱し、性加害を恋愛だと思い込もうとする典型的な防御本能だ。

被害者は、防御本能だと気付かず、性加害がほんとうに加害だったのかを疑いがちだ。自分が望んだのではないか、恋愛感情があったのではないか、と。

それは加害だよ、と明確に宣言してくれる物語はあまりにも少ない。

ヴァネッサは、ストレインとの関係を、恋愛だったのだ、自分が求めたのだ、と繰り返し語る。ストレインが少女を狙う捕食者だったという事実が次々と明らかになっても、必死で「私の場合は違う」と自分に言い聞かせる。その頑なさは、愛のふりをした虐待を、加害だったと認めることの難しさを物語っている。

同時に本書は、完璧な被害者なんて存在しないことも明確に描いている。ヴァネッサは、ピュアで清らかな被害者像とはかけ離れている。ヴァネッサの行動や性格は、ステレオタイプな「小児性愛者に狙われたかわいそうな被害者女性」からは逸脱している。同時にストレインも、「なんの葛藤もなく次々と少女を捕食する小児性愛者」ではない。彼には感情があり、愛情があり、葛藤がある。

完璧な加害者像や被害者像に固執する限り、そこから外れたものは、「自分は違う」「あれは、加害ではなかった」と思いがちだ。かりに加害があったと被害者が認めることができても、完璧な加害者・被害者像に囚われた第三者から「それって加害じゃないんじゃない?」「あなたが望んだんでしょ?」と二次加害を受けることもある。

著者は本書を『自分の話を聞いてもらえず、信じてもらえず、理解してもらえずにいる、現実のドロレス・ヘイズ(※1)とヴァネッサ・ワイたちに捧げる』としている。

「あれは恋愛だった」とロマンチックに語る物語ではなく、「あれは恋愛だったのか?」と問う物語が、今、求められている。

※1…ドロレス・ヘイズは、ナボコフの小説『ロリータ』の登場人物

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原宿なつき

原宿なつき

関西出身の文化系ライター。「wezzy」にてブックレビュー連載中。



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