推し活は「推し」と「私」を幸せにするか『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』【レビュー】

 推し活は「推し」と「私」を幸せにするか『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』【レビュー】
『アイドルについて葛藤しながら考えてみた ジェンダー/パーソナリティ/推し』(青弓社 香月孝史・上岡磨奈・中村香住 編著)

エコーチェンバー現象や排外主義の台頭により、視野狭窄になりがちな今、広い視野で世界を見るにはーー。フェミニズムやジェンダーについて取材してきた原宿なつきさんが、今気になる本と共に注目するキーワードをピックアップし紐解いていく。今回は、『アイドルについて葛藤しながら考えてみた ジェンダー/パーソナリティ/推し』(青弓社 香月孝史・上岡磨奈・中村香住 編著)を取り上げる。

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推しがいる人生は幸せである。つらい時期を推しがいるからこそ乗り切れたとか、日々推しに「ときめき」をもらい、その燃料で生きているという人も珍しくはない。

しかし、推し活をするなかで、葛藤を抱える人も同様に少なくはない。

アイドルを推すことで生じるモヤモヤ

松田青子の小説『持続可能な魂の利用』(中央公論新社)では、アイドルを推すことの葛藤が描かれている。主人公の女性が心惹かれたのは、グループアイドルのセンターで歌い踊る少女だった。力強いまなざしで「群れるな、他者と違うことを恐れるな」と歌い踊る少女に、主人公は魅了された。しかし、少女の後ろには長年、権力を握り続けていたプロデューサーの中年男性がいた。主人公にとって彼は、女子高校生や制服を「性的なもの」とラベル付けし、未成年の性的搾取を促してきたひとりに見えた。妹からは、「日本のアイドル文化はロリコン文化で性的搾取だよ」とアイドルにハマっていることを批判された。主人公は、彼女を推すことに対し、自分も搾取の構造に加担しているのではないか、と葛藤を抱くのだった。

推し活にともない生じうる葛藤は、「もしかしたら自分は差別や搾取に加担しているのではないか」といったモヤモヤだけではない。ルッキズムやエイジズムに加担しているのではないか? プライベートを切り売りさせ、過度な労働を要求してしまっているのではないか? 身勝手な理想を抱いている自分はキモいんじゃないか? もしかして私の推し活は、推しを幸せにしていないのでは!!?……推しに対する想いが真摯であればあるほど、葛藤は大きくなりがちだ。

そんなモヤモヤを一つひとつ俎上に載せ、解きほぐすことを試みているのが、『アイドルについて葛藤しながら考えてみた ジェンダー/パーソナリティ/推し』(青弓社 香月孝史・上岡磨奈・中村香住 編著)だ。

アイドルのパフォーマンスは「未熟だから」いい?

本書は、アイドル文化と異性愛中心主義や、ルッキズム、エイジズム、性的消費が密接に絡み合い、問題含みであることを前提としたうえで、それでも推さずにはいられないアイドルという存在の魅力を、さまざまな角度から葛藤しつつ考察した一冊だ。

ところで、アイドルの定義とはなんだろうか。香月孝史は、今日のアイドル受容に共通する特徴として「パーソナリティの享受」を挙げている。ここでいう「パーソナリティ」とは、性格という意味合いだけではなく、パフォーマンスからにじみ出るその人らしさや自意識といったものも含む。ファンは、アイドルが提供するコンテンツやパフォーマンスを受け取り、そこからパーソナリティを推察、享受することで、アイドルのイメージ、崇拝の対象となる偶像を作り上げていく。

アイドルは、歌やダンスを披露するパフォーマーであるが、「パーソナリティの享受」に主眼が置かれた場合、必ずしもパフォーマンスのレベルの高さが求められているわけではない。

高いパフォーマンスをアイドルグループが行った場合、「彼女たちはアイドルっていうかアーティストだよね」「彼はアイドルの枠を超えたプロの歌手!」「彼女のダンスはアイドルのレベルじゃない」などと評されることがあるが、それはつまり、受け手側にアイドルは必ずしも歌やダンスのプロフェッショナルではない、という共通認識があるということだ。

ただし、だからといってパフォーマンスのレベルが低ければアイドルで、高ければ歌手やダンサーというわけでは当然ない。本書の共著者のひとりである松本友也は、アイドルに必須のアマチュア性は、実力の有無ではなく、「演者に対する観客の期待」、具体的には「失敗可能性(うまくいかないかもしれなさ)」によって定義できる、と述べている。

いうまでもなく、歌手と同様の歌唱力を持つアイドルや、プロダンサーなみのハイレベルなダンスを軽々と行うアイドルも存在する。しかし、彼ら・彼女らたちが、バラエティに出演したり、モデルとしてポーズをとったり、何かしらの非専門家として表舞台に立つとき、そこには、失敗可能性が暗に期待される。「プロ並みではない」ジャンルへの取り組みを常に求められるからこそ、アマチュア性が立ち現われ、パーソナリティが享受される。

推し活とは、パーソナリティを享受するべく、アイドルが発信する様々なコンテンツを追いかけ、脳内で保管しながら、偶像を作り上げていく、ある種クリエイティブな行為だと言えるだろう。推し活は、与えられたものを受け取るだけではなく、受け手が自ら参加し、作り上げる必要がある能動的行為だ。

誰もが誰かのアイドルになりえる今、アイドルにまつわる諸問題は他人事ではない

ところで、SNSが発達し、演者のプライベート(風)が垣間見えやすくなった現代だからこそ、「アイドル視」は容易になっているように感じる。たとえば、先日、関西に住む友人が、推し(有名ミュージシャン)を目当てに上京していた。当然、ライブが行われたのだと思ったのだが、聞くと、推しの芝居の初舞台を観に来たと言う。感想を聞くと「頑張っていてよかった」と語り、推しがいかにほんわかした性格で優しいかをとうとうと語り出した。これは、友人が推しミュージシャンのSNSを通じて垣間見えるパーソナリティに惹かれたために、「プロ並みではない」ジャンルへの挑戦に対する「失敗可能性」をも楽しめた、というひとつの例だろう。

プロのミュージシャンや配信者だって、アイドル視されうることは言わずもがなだが、今や、パーソナリティが少しでも推察できる人なら誰でもアイドル視されうる時代である。起業家や料理人や科学者、有名なアイドルオタクがアイドル扱いされることだってある。平凡は会社員や、フリーターが「推せる」と着目されることもある。つまり、誰だって誰かのアイドルになる可能性があるというわけだ。それはある日突然、誰かが誰かの生きる希望になる可能性があるということでもあると同時に、オンオフなしに誰かの理想の姿で生きることを要求されたり、誹謗中傷や差別的視線にさらされたりする可能性があるということでもある。

アイドルを推すモヤモヤに向き合うことも、ひとつの「推し活」の形

共著者のひとりである筒井春香は、「推し活は恋愛や結婚、家族を人間関係の最上のものとするような家父長制的な人間関係に揺さぶりをかけるものになりうる」という推し活の可能性の一面を指摘している。同時に、推すことに含まれる身体やパーソナリティの商品化・客体化や、消費主義、異性愛中心主義、ルッキズムという負の側面にも言及している。

推すことで幸せを感じられるという個人の感覚は、誰からも非難されるものではない。しかし推すことにモヤモヤを感じるなら、推しながらも、アイドルにまつわる諸問題を考え続けることは可能だ。

推すことに対するモヤモヤに真正面から向き合うことは、アイドルについて真剣に考えることであり、推し活のひとつの形だと言えるかもしれない。『アイドルについて葛藤しながら考えてみた ジェンダー/パーソナリティ/推し』は、答えの出ない葛藤に向き合う有益な道具となりえるだろう。

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AUTHOR

原宿なつき

原宿なつき

関西出身の文化系ライター。「wezzy」にてブックレビュー連載中。



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