考える事をやめて心の言葉に向き合う「メッタ瞑想」って?

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考える事をやめて心の言葉に向き合う「メッタ瞑想」って?

Dennis Hunter
Dennis Hunter
2018-04-29

瞑想を通じて心に触れるとパワーを得ることができる。しかし、その方法を自力で考え出すことはできない。私たちは傲慢な脳を黙らせて、心の言葉を語る必要がある。

多くの人が、瞑想というのは脳に関わる活動だと思って瞑想を行いにやってくる。瞑想は思考や論理的な知性によって行うものだと思っているのだ。じっと座っていると、考えを巡らす脳の無制御の荒々しさに直面することになる。私たちは瞑想中も、首から上の部分に対処するのに多くの時間を費やしている。それだけでも、フルタイムの仕事のように思えるほどだ!

しかし、人間は頭だけでできているわけではない。時々その通りだと感じることはあるが…  首の下にはまったく別の世界があり、肉体を伴った経験が絶えず展開されていて、鼓動やさまざまな感覚や身体的メッセージが血管と神経系を通じて全身を巡っている。はらや肝などの臓器は、脳にはできない方法で、一瞬にして直感的に物を察知することができる。腸を制御している腸神経には、1億ものニューロンが存在している。これは、脊髄と末梢神経全体に伸びている72キロの神経線維に存在するニューロンよりも多い。体には体独自の知識と英知があるが、そのはたらきは顕在意識からは見えないようになっている。体の神秘的な叡智は、感覚、印象、直感、感情などとして経験されるのだ。


瞑想の核心に迫る

私たちの胸の中心には別の中央処理システムが存在する。心臓である。心臓は母親の子宮に宿って1ヶ月もしない時から絶えず鼓動し続けている。人類が誕生して以来、胸部には臓器としての心臓と循環器系を超える何かが宿っていると考えられてきた。チベット人は「精神」がどこにあるか尋ねられると、頭部ではなく胸の中心を指す。心臓は、感情の本質が宿る場所であり、血液だけでなく、愛情、共感、優しさ、喜び、悲しみ、幸福といった感情や痛みが流れ出ていく場所である。

マイアミ・ビーチのイナージー・メディテーションで週に一度私が指導している「ハート」瞑想では、「ハート」という言葉を聞いた時にまず思い浮かべる特質は何かと参加者に聞くことにしている。愛というのがよくある答えで、私が引き出そうとしている答えでもあるが、 時々、別の角度から切り込んでくる人に出会うことがある。最近、ある人は「脆弱性」と答えた。「忠誠心」と答えた人もいた。

どれも多くを物語る言葉だ。ハート、心臓というのは、そういったもの全てであり、それ以上でもある。愛情、痛みの感情、喜び、悲しみの源泉である。自分の脆弱性を感じる場所であり、周りの人に心を開こうと感じたり感じなかったりする場所である。

さあここで、心(臓)を感じられるか確認してみよう。考えを巡らせている心から抜け出て、脳から抜け出て、胸の中心に気持ちを向けていこう。心(臓)そのものを考えるのではなく、胸の中心にある急所として感じてみよう。そこにある自然な優しさに注目しよう。それは、大きな悲しみの方向にも笑いと喜びの方向にも進む可能性があるやや不安定で弱い場所である。感情のよろいを抜けていき、自分の柔らかい生の心(臓)に触れることができるだろうか。そこには心を落ち着かせる静かな鼓動が響いているかもしれないし、喜びが満ちているかもしれないし、悲しみに打ちひしがれているかもしれない。あるいは、さまざまな感情が入り混じって理解できない状態かもしれない。どんな状態であってもあるがまま受け入れて、こうだったらよかったのに、と思わないようにしよう。それが自分の心(臓)であり、あらゆる感情が息づいている場所なのだから。瞑想の達人、チュギャム・トゥルンパはかつて、瞑想を深めて人間性を成長させていく過程で出会う自分自身の生得の美質について語っていた。トゥルンパはこれを「真の悲しみの心」と呼び、精神的戦士になるうえでかぎになるものだと考えていた。自分の脆弱性と優しさに触れ、他人を愛する気持ちや他人の痛みを感じたいと思う気持ちに触れたからといって、強さを失うわけではない。私たちは強さを発見するのだ。  


このことは、私たちの最も強烈な条件付けに反する力強い真実である。私たちは心(臓)は小さく弱いもので、何かを愛する力は限られていると思うことが多い。私たちは愛の総量は限られていると思っているので、愛を出し惜しみして、愛を受ける価値がある人とだけ愛を分かち合っている。しかし、私はこれとはまったく異なる考え方で躾けられた。その躾の元には、愛したり、共感したり、喜んだり、心を鎮めたりする能力は無限だという考えがある。練習すれば、そのような内に秘められた性質に触れられるだけでなく、世界全体とそこに存在するあらゆるものを慈しみの心で包むこともできるのだ。私たちはその過程で自分の壁を打ち破っていく。すると、私たちの心はけっして開かないと思っていた人に向かって開き始め、ブレネー・ブラウンが指摘したあの有名な「脆弱性の力」を発見することになる。

実際、瞑想を通じて心 (臓)に触れるのは力強い行為だ。しかし、その方法を自力で考え出すことはできない。私たちは傲慢な脳を黙らせて、心(臓)の言語を語る必要が有る。心(臓)は脳が支払おうとする通貨を受けつけない。心(臓)は物々交換でしか取引を行わない。心(臓)はこう持ちかけてくる。「私にあなたのすべてをください。そうすれば、その見返りとして、あなたという人が本当は無限に光り輝き、情け深く、楽しく、悲しく、優しく、愛情深い存在なのか見せてあげましょう」それはとてつもない勧誘であり、一生に一度の取引である。

Translated by Setsuko Mori

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