なぜあなたは苦しいのか。その苦しみを和らげる方法
さらに、パタンジャリは、苦しむという経験はしばしば、前向きな変化への初めの一歩だとも言っている。なぜなら、苦しみが増し、人生が中断してしまうようなときのほうが、解決法を見つけ出そうと努力するものだからだ。
不必要な苦しみを味わう必要はない
次の第2章節で、パタンジャリは、苦しみから影響を受けない人はいない、ということを受け入れ、その原因を理解することによって、この先やってくる苦しみに備え、不必要な苦しみを避けることができると説いている。
困難、喪失、傷心といった事実も、それが精神や身体、感情に引き起こす苦しみを変えることはできない。けれども、努力によって、人生がそういった局面に達したときの反応や、受け止め方は変えることができる。非難であったり、罪悪感や後悔であったり、「こうすべきだったのに」「もし〜だったら」「どうして私が?」というような否定的な反応をしないですむようになるのだ(なぜ、他の人ではないの?という問いには、困難、障害、悲劇といったものは、その報いに値しない人の身に毎日のように起こっている、とパタンジャリは答えるだろう)。こういった反応は、苦しみを和らげるのではなく、それを大きくするだけだ。
苦しみに優劣はない
この『ヨーガ・スートラ』の一節がそもそも言わんとしているのは、苦しみに優劣はない、ということだ。つまり、誰かの苦しみや困難が、他の人のものと比べて不適当であるということも、同情に値しないということもないのだ。
ひとつぴったりな例を紹介しよう。ある友人の母親が、もうすぐ亡くなりそうだというとき、時期を同じくして、別の友人は飼い犬に死なれて悲しみにくれていた。友人たちの間では、犬が死んだという友人が、母を亡くしつつある友人の前でひどく取り乱していることに苛立ちを感じる人もいた。けれども、パタンジャリであれば、苦しみとは、その人自身の個人的な経験であり、それぞれが同じように正当なものだと言うだろう。
苦しみは普遍的なものではあるが、ひとつひとつの苦しみの経験は、その人特有のものである。これを受け入れることができれば、「こんな自分を乗り越えなくては。彼女のほうがどんなに苦しんでいるかを見なさい!」「なぜ彼はあんなに動揺しているのかしら?そうしたいのはこっちのほうよ」などと考えて、自分と他人を比較したり、自他を批判したりすることから生まれる、不必要な苦しみを感じずにすむのだ。
『ヨーガ・スートラ』のふたつの節の教えが持つメッセージを理解し、受け入れることができれば、批判しようとする心を手放し、自分を含めたすべての人が感じている苦しみや問題に対して、より大きな思いやりと同情の気持ちを持てるようになる。そして、苦しみをきっかけとして、自らへ問いかけ、つながっていくプロセスを進み始めれば、どんな状況がやってこようとも、その備えとなるような、洞察力と手段を培うことができるだろう――うまくいけば、それにしばしばついてくる「余分な」苦しみを感じずに。
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