「私は美しい」以外のルッキズムとの戦い方|『わたしの体に呪いをかけるな』【レビュー】
「私は美しい」ではなく、「私は当たり前で、否定される存在ではない」という自己肯定
外見そのものが問題なのではなく、社会が外見に付与した意味づけこそが問題なのだとリンディは気づき、気づいた時点から、自己肯定できるようになった。
ポイントは、リンディの自己肯定が、「私は美しかったのだ」「すべての人は美しいのだ」という自らの美の肯定に軸足を置いていない点だ。
実際リンディは、太った人々が軽蔑の対象ではなく美の対象としてクールに撮影された写真にエンパワーされるが、そこで彼女が感じたのは、「私も美しい」というよりは「私は当たり前の存在だったんだ」「否定されるべき存在ではないのだ」「不自然な存在ではないのだ」という感覚だった。
これまで被写体として選ばれてきたのは、若い白人で高身長で痩せている人ばかりであり、それ以外の人は存在しないか、努力を怠っている人、劣った人だとみなされる風潮があった。しかし、実際には、それ以外の容姿の人だって当たり前に存在しているのだ。当たり前に存在している人の存在を否定し、「らしさ」に押し込めようとする社会の側こそが問題だったのだと気づいたとき、リンディは自らの体にかけられた呪いをはねのける強さを手に入れたのだ。
近年のボディポジティブ・ムーブメントに関しては、「美しさの物差しを増やしているだけであって、美という指標は維持したままであり、根本的な外見差別の解消には繋がらない」という批判はありえるだろう。しかし、多様な外見の人々を、揶揄することなく表舞台に出すことは、美の物差しを増やすのではなく、「どんな容姿の人でも、否定されるべき存在ではない」というメッセージを伝えるのに効果的であることは間違いないだろう。
自らの体を「否定されるべきではない、当たり前のもの」として受け入れた後も、リンディの容姿をバッシングする声は続いている。しかしもう彼女は、自分が悪いのではないかと悩むことはない。嫌がらせには断固としてNOを突きつける。私の体は私のもの、消え失せろ、と。
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